<戦後70年 島守の心 島田叡と沖縄戦>(5)流転の末
2015/06/27 17:00
島田叡が一時身を寄せた「轟の壕」。案内するのは戦没者慰霊行事を続ける比嘉正詔(せいしょう)さん=沖縄県糸満市伊敷
■県庁解散、摩文仁に消える
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県民の4人に1人が亡くなったとされる沖縄戦。その多くが避難先となった本島南部で犠牲になった。
「飲み水をくみに行った泉に、何人ものご遺体が浮かんでいた。腐敗して膨らんでいたが、もう、怖いという感覚を超えていた」
芝生が広がる沖縄県営平和祈念公園(糸満市)で、又吉全盛(ぜんせい)(77)が重い口を開いた。公園がある摩文仁(まぶに)で生まれ育ち、今も住む。
70年前。7歳の又吉は激しい砲弾の下を逃げ回り、飢えと闘っていた。1945(昭和20)年5月下旬、母親と祖父母、2人の弟と壕(ごう)に避難したが、1歳の弟が砲撃の犠牲となり、祖父母も重傷を負った後、亡くなった。
◇
住民たちの遺体を目の当たりにしながら、島田叡(あきら)知事らは壕から壕へと短期間で移動を繰り返す。
6月3日。島田は疎開業務に当たる人口課長の浦崎純(故人)に「住民保護に努めよ」と指示する。その後、「久しぶりに水浴びをしよう」と誘い、「元気で行こう」と声をかけた。浦崎が島田を見た最後だった。(「消えた沖縄県」、65年、沖縄時事出版社)。
同月上旬、一行は「轟(とどろき)の壕」(糸満市)にたどり着く。ここが戦時中最後の県庁となるが、もはや行政としてできることはなかった。
最後まで県民の生命保護を説き、部下を督励し続けた島田。だが目に映る光景は、その願いとは裏腹に、屍(しかばね)の山だった。島田は県庁の解散を宣言する。
「轟の壕」を出た島田らは、第32軍が撤退していた摩文仁へ向かう。同23日、第32軍司令官らの自決で、沖縄戦の組織的戦闘は終結する。その後の26日、荒井退造警察部長と一緒に壕を出たのを最後に、島田の消息は今も判明していない。
◇
摩文仁の丘に立つ「島守の塔」。島田ら沖縄戦で殉じた県職員を慰霊する。
戦後、一帯には遺体が散乱していた。当時を知る又吉は、目を真っ赤にはらして言う。
「復興の最初の仕事は、ご遺体を葬り、弔うことでした。皆さん、本当にお気の毒でした」
完成は終戦から6年後。建立に奔走したのは、浦崎ら戦火を生き延びた県職員だった。極限の地に立つ塔は、軍の論理が優先する戦時下、住民の生命を守れなかった島田らの無念を教訓として伝える。
=敬称略=
(津谷治英)