マイウェイ汀の物語 1・17から3・11へ(3)レインボーハウス
2021/02/17 05:30
レインボーハウスに通いながら成長し、16歳になった小島汀さん(左から2人目)=2007年12月、神戸市東灘区本庄町1
■素の自分出せる「もう一つの家」
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3歳で阪神・淡路大震災に遭った小島汀(おじまみぎわ)(29)=兵庫県芦屋市=にとって、全壊したアパートのがれきに埋もれ、父を亡くした「あの日」の記憶はおぼろげだ。
ただ、心にはくっきりと傷が残っていた。
暗い所、狭い所が怖くて、1人でトイレに行けなくなった。映画館にも。夜、電気をつけたままで寝た。
「お父さんがいない」ということを初めて意識したのは、芦屋市立精道小学校1年のときだ。忙しく働いていた母は授業参観に来ることができず、汀は思わず泣いてしまう。
友だちが、家族や父のことを話しているときは、なんだか居づらくて、涙をこらえていた。
それに、「死ね」という言葉に敏感になった。周りで友だちが言っているだけなのに、自分に向けられたわけじゃないのに、「突き刺さるように頭に入ってきた」。学校から帰り、母の顔を見て大泣きした。
◇
汀には、母と兄と3人で暮らすアパートとは別に、もう一つ「家」があった。
震災遺児の心のケアを目的に、あしなが育英会が1999年に建てた「神戸レインボーハウス」(神戸市東灘区)だ。
自宅から歩いて5分の場所にあり、小中学生の頃は、学校が終わると毎日のように駆け込んだ。
鬼ごっこをして走り回ったり、併設の寮で暮らす大学生に遊んでもらったり。「聞いて、聞いて!」。大好きな阪神タイガースや中学校で頑張っている陸上部の成績など、職員に話したいことはいっぱいあった。
同じように家族を失った友だちと過ごす時間も、貴重だった。学校でクラスメートがお父さんの話をしていて「いいなー」と思ったことも、寂しさも、ここでは分かり合えた。
汀にとってレインボーハウスは、「何でも受け入れてくれる。安心して、素の自分を思いっきり出せる楽しい場所」だった。
◇
毎年1月、レインボーハウスでは「今は亡き愛する人を偲(しの)び話しあう会」があり、遺児が作文を読んだ。震災10年の2005年。中学1年だった13歳の汀が父への思いを伝えた。
「もし、今お父さんに会えるなら、一番に甲子園に行く約束をして、一緒に六甲おろしを熱唱したいです」
そして「あしなが育英会の友だちは、お父さんからの大切な宝物です」。(中島摩子)
【バックナンバー】
■汀さんが追悼式で読んだ作文全文
■(2)3歳で遺児
■(1)プロローグ
■【動画】汀の物語 二つの被災地を生きる理由