余部鉄橋の列車転落事故から35年 遺族の北村さん、犠牲の妻に感謝の年月 子3人育て上げる

2021/12/27 05:30

事故33年に合わせて現場を訪れた尼崎JR脱線事故の遺族やJR西日本労働組合の乗務員ら=2019年12月、兵庫県香美町香住区余部

 兵庫県香美町香住区余部の国鉄(現JR)山陰線の余部鉄橋で回送列車が突風にあおられて転落し、6人が死亡した事故から、28日で35年となる。鉄橋は2010年、防風壁を備えたコンクリート製の橋に架け替えられ、周辺の風景は一変した。痛ましい事故の記憶は時代の流れとともに遠ざかる。しかし、大切な人を失った遺族は、高齢となった今も現場を訪れ、犠牲者に鎮魂の祈りをささげる。(金海隆至) 関連ニュース 脱線事故の瞬間 照明が消え。「ドン」という音。悲鳴。全員が床に倒れた。 列車を待つ人、下校する生徒…50年前の国鉄駅、ジオラマで再現 丹波篠山・福住駅 3年半かけ住民が制作 「時刻表より早くドアが閉まった!どうして?」→鉄道会社の回答に納得「その時間は列車が走り出す時間です」


 「年に一度ささやかな家族旅行を楽しむ仲の良い夫婦でした。妻との別れを悟るには随分時間がかかりました」。事故現場近くに暮らす北村忠久さん(77)は、思いをかみ締める。
 その日は、忘れもしない日曜日。妻加代子さん=当時(38)=は、小学生の子ども3人と自宅にいた。電話で勤務先のカニ加工場の同僚から「仕事納めの作業を手伝って」と頼まれ、昼から出掛けたという。そのすぐ後、鉄橋から落ちた車両が工場を直撃し、帰らぬ人となった。
 一方、忠久さんは地元の漁業無線局に出勤し、山陰沖で操業する漁船に、航行や気象に関する情報を伝達していた。午前、ある漁船の船長から「経験したことのない強風が吹いた。いかりを打って漂泊する」という緊迫した連絡を受けたのを覚えている。
 忠久さんは事故後、身を粉にして働き、料理や家事もこなして子ども3人を育て上げた。全員が親元を離れた今も、工場跡に建立された慰霊の観音像に他の遺族と造花を供え、毎年の盆と12月28日には欠かさず生花を手向けるのが日課となった。
 「妻が子どもを残してくれたからこそ、日常に集中し、先立たれた葛藤を乗り越えられた。感謝しかない」と実感を込める。

 余部鉄橋列車転落事故 1986(昭和61)年12月28日午後1時25分ごろ、国鉄山陰線余部鉄橋で回送列車の客車7両が強風で約40メートル下に転落し、直下のカニ加工場や民家を直撃した。従業員の女性5人と男性車掌が亡くなり、6人が負傷した。国鉄の事故調査報告書によると、鉄橋上では風速33メートルを超える突風が吹いたとされる。風速25メートル以上になれば列車を停止させる規定を守らなかったなどとして、国鉄の指令員3人が93年に有罪判決を受けた。

■「運行第一」の体質自省 JR乗務員ら例年現場に
 12月28日には、JR西日本労働組合(約550人)に所属する乗務員らも各地から訪れる。国鉄民営化3カ月前に起きた事故の教訓を忘れまいと、犠牲者を悼む集いを開いてきた。2年前からは2005年4月に起きた尼崎脱線事故の遺族も参列している。
 同労組中央本部の前川誠書記長(59)は「JR発足後も重大な事故が続いたのは、危険を察知しても列車を止めることを嫌う『運行第一』の体質が、引き継がれた結果ではなかったか」と自省する。
 その上で「ダイヤを乱すことなく、日々の仕事を終えたい-というのが鉄道マンのさがかもしれない。だが、それに負けず、私たち一人一人が安全のためにできることを考えたい」と話した。

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