山陽新幹線開業50年 「これが未来の乗り物か」沿線住民ら当時の思い出語る
2022/03/15 06:00
新大阪駅で行われた山陽新幹線始発列車の出発式。大阪府知事らが紅白のテープにハサミを入れた=1972年3月15日
山陽新幹線の営業開始から、15日で50年となった。人も物も活発に動いた高度成長期を象徴する西日本の大動脈。交通網や生活様式が大きく変わった今も、往時の記憶とともに、沿線住民のなくてはならない存在として生き続けている。
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【写真】新幹線開通以前に撮影された現在の西明石駅北側付近。農村風景が広がる
「転勤の多い長女が、東京や名古屋からよく帰省してくれたのも、新幹線が相生に止まるから。本当にありがたい存在やね」。相生市那波野の南條登さん(76)が、山陽新幹線への思いをしみじみと語る。
初めて乗ったのは、新大阪-岡山間が開通した1972年3月15日の直前だった。農協職員として、相生駅であった試乗会に招かれ、一足早く夢の超特急を体感した。岡山駅まで、1時間足らずで往復するスピードに「これが未来の乗り物か」と驚いたという。
滞在先の選択肢も広がった。職場の親睦旅行で新幹線を使い、憧れだった東京ディズニーランドへ。「新幹線がない時代は、夜行列車で熱海の温泉がやっと。着いたころには朝やったけどね。(新幹線ができて)ずいぶん楽させてもろうたねぇ」と懐かしむ。
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西明石駅近くでホテルを営む山田雅仁さん(71)は、田園地帯だった開業前の駅周辺を今も覚えている。「何でこんな所に新幹線が止まるねんって、みんな言うてたよ」
その翌月、山田さんの母がフレンチレストランをオープンすると、川崎重工や三菱重工などの出張客らに重宝がられ、ホテル経営にも乗り出す。周辺の開発が活発になり、現在は七つのホテルが営業し、総客室数は700室を超えるまでになった。
2年前から続くコロナ禍で打撃を受けるが、出張需要の回復に期待する。「やっぱりオンライン会議ではなく、会って飲んで話してじゃないとね」
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駅に対する思い入れがある人もいる。
神戸市北区の新田栄治さん(65)は、サッカーJ1ヴィッセル神戸の応援のため年に1、2回、新神戸駅から新幹線を利用して遠征する。
行きは1人でも、試合後はいつもサポーター仲間と一緒に新神戸駅まで帰ってくる。車内では、勝てば試合の余韻に浸り、負ければ「次こそは」と反省会。改札を出た所で、最後にひととき盛り上がり、解散するのが恒例だ。
ホームの神戸で試合がある時も、新田さんは新神戸駅まで足を運ぶ。遠方から来るサポーターを出迎えるため、改札前の椅子に座って待つ。
都心部への交通アクセスなど、課題も抱えている新神戸駅だが、新田さんは「改札も一つで待ち合わせがしやすいんですよ。こぢんまりとしていて大好きです」と笑う。
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山陽新幹線は75年3月、岡山-博多間の運行も始まり、全線が開通した。九州新幹線の開業後は、直通のダイヤも組まれるようになり、利便性が高まる。
空路に対し「陸路派」を自認する物流サービス会社経営、吉田宗平さん(53)=神戸市西区=は、新神戸駅を起点に、東は東京、西は熊本まで新幹線で移動する。飛行機よりもゆったりと仕事ができて、乗り換えなどで無駄が少ないというのが理由という。
利用歴は、30年超。さまざまな思い出がよぎる。
駆け出しの20代のころ、クレーム対応に向かうために乗った早朝の新幹線。気の重さに、売店の週刊誌も、車内販売のコーヒーも欲しいと思わない。背もたれを倒すのさえ気が引けた。
博多方面に向かったときは、トンネルに入るたびに電波が悪くなり、電話が途切れた。仕事に支障が出るものの、それはそれでと割り切り、ビジネス書などを読んで研さんを積んだ。
コロナ禍で「リモート会議」などが広がった今も、対面での商談にこだわり、新幹線を利用し続ける吉田さん。発車前、毎回ホームで足元を撮影し、会員制交流サイト(SNS)にアップする。
故郷の神戸に「いってきます」を告げ、気を引き締めるための儀式なのだという。
(地道優樹、松本寿美子、大田将之)