「日中の懸け橋に」友好願い歌集にルビ振った元音楽教師 半世紀の合唱指導、きっかけは国交正常化
2022/09/17 19:26
コンサートのパンフレットや写真を前に、日中国交正常化からの50年を振り返る張文乃さん=神戸市中央区北野町1
一冊の歌集がある。
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「中国女声合唱曲集」。中国語の歌詞に、カタカナとアルファベットでルビが振られている。表紙の裏には「無気音は△印で表し、息をあまり外に出さないで発音する」と、歌う際の細かな注意点が記されている。
きっかけは50年前にさかのぼる。田中角栄首相と中華人民共和国の周恩来首相が日中共同声明に調印した、1972年9月29日の日中国交正常化。喜びを歌で表そうと、神戸中華同文学校(神戸市中央区)の講堂に約40人の華僑が集まった。合唱のピアノ伴奏を務めたのが、かつて同校の音楽教師だった張文乃(ちょうふみの)さん(81)だ。
「これで、日本と中国が仲良くなれたんだと。重たい心の負担が消えるようだった」
中国人の父、日本人の母のもとで、神戸で生まれ育った張さんが振り返る。この合唱をきっかけに、張さんはコーラスの指導者に。中国語を話せない日本人でも口ずさめる歌集の出版に力を入れた。
87年発行の合唱曲集はその1冊目。後にNPO法人「国際音楽協会」を設立し、参加者の国籍を問わない中国音楽コンクールの開催にも奔走した。
「両国の架け橋になれたら」。半世紀の間、熱い思いを胸に活動を続けてきた道のりは、決して平たんではなかった。
◇ ◆
■父は中国人 神戸・北野生まれの張文乃さん
中国人の父、日本人の母のもと神戸・北野で生まれ育ち、音楽で両国をつないできた張文乃さん(81)=神戸市中央区。1972年9月29日の日中国交正常化を起点にした半世紀の活動は、時に両国の政治情勢に翻弄(ほんろう)された。一時は病に倒れながらも、「使命」を胸に波瀾(はらん)万丈の半生を歩んできた。
父・張雲祥さんが上海から神戸に船で渡ってきたのは、大正時代のことだ。同乗するはずだった妻と次男は混乱の中ではぐれ、生き別れになった。
幼い長男を連れた雲祥さんは、洋服の仕立職人となる。神戸のトアロード沿いなどに店を構え、オーダーメードで1着25万円のスーツを、医師や大学教授らが注文したという。
そんな雲祥さんと結ばれたのが、母となる幸野シゲコさん。愛媛の農家出身だった。日中戦争さなかの40年10月、文乃さんが生まれた。
「あなたは中国人。だからといって日本の文化を知らないのはいけない。日本に住まわせていただく感謝を、忘れてはいけない」。幼いころ、母はそう言って文乃さんに日本舞踊を習わせた。
終戦後も、かつて敵国だった中国人へのまなざしは厳しかった。「国交がない時代、華僑はみんな、どこか肩身の狭い思いをしていた」と振り返る。
■「中学音楽の普及が使命」難病も再起
文乃さんは小学3年で習い始めたピアノにのめり込み、大阪音楽大を卒業。神戸中華同文学校の音楽教師を務め、結婚して2人の子どもに恵まれた。
72年秋、日中国交正常化を祝う同校での合唱をきっかけに、両国の音楽交流に力を入れていく。日本とも西洋とも違うメロディーの魅力を掘り下げ、紹介する手だてを増やした。
98年には仲間とともに「旅日華僑音楽家協会」(現・国際音楽協会)を設立。翌年、中国音楽コンクールを神戸で初開催し、成功に導いた。
「中国音楽を日本に普及させる。それが使命」
だが、直後に文乃さんは自宅で倒れる。全身まひとなり、少し動くだけで体に激痛が走った。診断はギラン・バレー症候群。医師は「ピアノはもう無理」と告げた。
絶望の中で母の言葉を思い出した。「つらい時は、つらい場面を演じさせられているの。その時は最高に演じきることよ」
文乃さんは苦しいリハビリを重ね、不可能とされた再起を果たす。
■対立、緊張…音楽は乗り越える
日本政府が沖縄県・尖閣諸島を国有化した2012年は日中関係が「国交正常化以来、最悪」といわれるなど、日中は時に対立してきた。過去に神戸で開いたコンサートで、合唱を指揮していた時だ。客席にいた男性の一人が「なんで中国の歌なんか歌うんや」と罵声を浴びせてきた。
「怖かった。客席から上がってきて、刃物で刺されるかと思った」。文乃さんは最後まで指揮を続けたが、「日中関係が悪化すると、必ず活動に影響が出てくる」と懸念する。
今も台湾を巡って日本の同盟国・米国と中国の緊張が高まるなど、日中関係の改善は遠い。それでも文乃さんは5、8月に国交正常化50年の記念演奏会を終え、今後の活動を見据える。「音楽は、全てを乗り越えた存在。草の根の取り組みを続けていきたい」
穏やかな表情に、信念が宿っていた。(上田勇紀)