口論の末に殴られた女性が夫を刺した殺人未遂事件、あなたならどう裁く?

2022/11/05 20:20

法廷で弁護側の被告人質問に耳を傾ける裁判官と裁判員役の生徒ら=神戸地裁

 高校生や大学生を対象にした模擬裁判が、神戸地裁で企画された。内容は、女性が包丁で夫を突き刺したという架空の殺人未遂事件。行為を認める被告の女性に裁判員役の高校生らが下した判断は、刑務所に収容する「実刑」と社会で更生を図る「執行猶予」が拮抗(きっこう)する結果となった。法廷で明かされた事件の背景には、女性に同情できる事情もあり、高校生らも最後まで判断が揺れた。実刑か執行猶予か。あなたならこの事件、どう判断しますか。(篠原拓真) 関連ニュース 夫を刺した女性の量刑は? 裁判員「18歳から」を前に、高校生や大学生が模擬審理を体験 神戸地裁 「お母さん返して」「こんなこと許されるのか」立ち尽くす遺族 5人殺傷、無罪判決に騒然 尼崎女性刺殺、元夫が起訴内容認める 離婚後の楽しげな生活に立腹、牛刀用意し待ち伏せか

■事件概要と争点
 事件は、4月22日午後2時ごろに発生したという設定だ。神戸市中央区の自宅にいたパート女性(38)は、小学5年の長女の中学進学を巡って夫と口論になった。夫から顔を殴られる暴行を受け、怒った女性は刺し身包丁(刃渡り約20センチ)で後ろから夫の腰を突き刺した。女性は刺した行為を認めており、刑罰の重さが争点となった。
■経緯や事件の背景
 模擬裁判では、検察側と弁護側がそれぞれ冒頭陳述をした上で、事件に関する証拠について述べた。検察と弁護側が明らかにした内容は次の通り。
 ▽検察側
・女性は夫と長女の3人暮らし。2017年ごろから夫の収入が減少し、徐々に夫婦仲が悪化していた。
・事件が起きた日は、女性が長女の学習塾についての相談を夫に持ちかけた。夫は話を聞かず、女性がなじったところ、夫は女性の顔面を殴った。
・殺意を抱いた女性は、台所から刺し身包丁を持ち出し、冷蔵庫からビールを取り出そうとしていた夫を背後から突き刺した。
・包丁は夫の右背中下部から右脇腹に向けて深さ15センチほど刺さった。小腸まで達する全治6カ月のけがを負い、退院後も傷の痛みで車の運転や激しい運動ができない。
 ▽弁護側
・女性は夫からしばしば暴行を受け、怒りを募らせていた。当日も顔面が腫れるほどの暴行を受け、顔面打撲や口腔(こうくう)内裂傷で全治約2週間の診断を受けた。
・長女の中学進学について、まともな話し合いをせずに暴力を振るう夫に絶望し、女性はとっさに事件に及んだ。
・女性は全事実を認め、素直に反省している。


■被害者の証言
 検察側は被害者となった夫への証人尋問を求め、検察側と弁護側が夫に事件の経緯や背景などを尋ねた。
 事件当日は休日のため、昼ごろからビールを飲んでいたと話す夫。検察側が長女の受験に対する考えを問うと、「6年生になってから考えればいいと思っていた」と説明した。「妻は自宅でいつも受験の話をしていた」と言い、「事件の日は普段以上にしつこかった。休日を邪魔されるのが嫌で、テレビでサッカーの試合を見ていた」と話した。
 そうした中で女性から「最低の父親」と言われたことが、暴行のきっかけになったという。事件後の長期休職は仕事に影響し、家庭内のことが原因の事件のため「会社で肩身の狭い思いをした」とも訴えた。
 質問者は弁護側へ移った。弁護側の「げんこつで女性の顔を殴り、倒れた女性の顔をさらに殴った。女性が倒れても手当てをしなかった」という問いを夫は事実と認めた。その上で「言われたのは『最低の父親』の一言だけだが、疲れていてカッとなった」と暴行に至った理由を明かした。
 また長女の私学入学への考えを問われると、「家計を考えても、無理に私立中学に入れる必要がないと思った。長女の様子を見ても、入りたがっているようには見えなかった」と述べた。
■女性の証言
 弁護側は被告の女性への質問を求めた。法廷の中央に座る女性に弁護側、検察側の順で問いを投げかけた。
 夫を刺した理由を改めて尋ねる弁護側に、女性は「娘の進学に何の相談にも乗ってくれないばかりか、暴力を振るう夫に絶望した。これまで積み重なってきた不満が一気に爆発した」と答えた。
 女性は、夫からの暴力は2年ほど前から始まったと説明。「夫は酒を飲むと人が変わり、テレビを見ている時に話しかけると不機嫌になる」とし、「聞いてほしいと話しかけると、しつこいと言って暴力を振るった」と明かした。
 女性が長女の受験に対して熱心な理由についても、弁護側は尋ねた。女性は「私は家計が苦しいという理由で大学にも行けず、就職も苦労した。学歴が低いという負い目をいつも感じていて、子どもには同じ思いをさせたくないと思った」と述べた。
 こうした中で「娘の一生に関わる問題に関心を示さない夫に、こんな人とは一緒にいられない、絶対に許せないと思った」とした。
 弁護側は事件後の対応についても質問した。女性は長女の叫び声でわれに返り、「慌てて近くにあったタオルで止血しようとした」と振り返った。「一人の人間を殺してしまうところだったという自分の行動に、恐ろしさを感じて眠れない。夫や娘に対して本当に申し訳なく思う」と謝罪した。
 対して検察側は、女性が過去にも何度か包丁を持ち出して、けがをさせたことについて問うた。女性は「身を守るために仕方なく包丁を取り、夫の暴力をやめさせたことは何度かある」と認め、「傷つけるつもりはなかった」と答えた。
 検察側は、夫の暴力について行政や親族に相談する考えはなかったのかと尋ねたが、女性は「家庭の恥をさらすようだと思い、外には相談できなかった。両親にも心配をかけたくなかった」と話した。
 また検察側は、長女が私立学校に行きたいと話していたのか、とただした。女性は「まだあまり勉強が好きな子ではないが、後で必ず勉強の成果は出てくる。私立に行く方が幸せになると信じていた」と答えた。
■検察側は「懲役6年」を求刑
 検察官は、女性が鋭利な刺し身包丁で背後から突然刺した行為を「人を殺すのに十分な危険性がある」と指摘した。長女が早期に通報したことで救命が早かったなどとして「被害者が命を取り留めたのは幸運の結果にすぎない」と述べた。
 そして、事件が与えた影響を次のように挙げた。夫の傷は深さ15センチ。完治までの6カ月の間、痛みに苦しみ、退院後も車の運転や趣味のテニスはできない▽母親が父親を刺すという結果は、長女に精神的なショックを与えた-。
 その上で、同様の被害を受けた事件では「比較的長期の実刑判決が多い」と主張。他の裁判結果との公平性の観点からも量刑を考えるように求め、「被害者が暴力を振るった点は落ち度がないとは言えず、同情の余地はある。しかし、それらを考慮しても実刑が相当だ」と訴えた。
■弁護側は「執行猶予付き判決」を主張
 弁護側は夫の様子を「酒癖が悪く、2週間に1回も女性を殴っていた」と述べ、「事件の最大の特徴は被害者にも大きな責任があるということ」と強調した。
 刺した回数が1回、事件後に女性が夫の手当てをした点などを挙げ「殺意は一時的で、強いものではない」とし、「長女を思う母親の気持ち。暴力から逃げたいという女性の気持ち。いずれの面からも同情の余地がある」と訴えかけた。
 また、同様事件でも被害者から暴力を受けた上で発生した事例は、執行猶予付き判決が数多く存在するという状況も付け加えた。
■裁判員らの評議
 法廷から別室へ移った裁判員ら。2班に分かれ、女性に対する量刑について意見を交わすが、裁判長は次のように語りかけた。
 目的は被告の罪に見合う刑を選ぶこと。悪さの程度、突発的か計画的か。犯行態様や結果、経緯を中心にし、今回の事件がどのようなものかを考えてほしい。
 高校生9人が裁判員として議論したA班は、最初の意見集約で実刑派が4人。「明らかな殺意がある」「突発的に人を殺すのは感情の自制ができていない。次も人を刺さないと保証できない」「誰かに相談するなど、犯行を防げる手段があったはず」などと述べる。
 一方で執行猶予派は5人。「事件の経緯を見ても原因は被害者」「刺した後にタオルで止血している。本当に殺意が強かったのか」「突発的に1回刺しただけで止めている。悪質性は低い」と主張する。
 議論の中である裁判員は、被告人質問で女性が絶対に許せないと述べたことから「殺意が弱いわけではないと思う」と指摘。別の裁判員は「殺意が強ければ救命活動はしないのでは」と応じた。また、「刺し身包丁という長い刃物で危険性は高い」「救命活動よりも、事件で生じた被害の方が重要ではないか」といった意見も出た。
 議論は40分の制限時間ぎりぎりまで続き、意見の全員一致には至らなかった。多数決の結果は実刑判決支持5人、執行猶予付き判決支持4人と当初を逆転。結論は実刑判決となった。
 一方で大学生や高校生7人が討議したB班は、実刑判決支持3人、執行猶予付き判決支持4人で、執行猶予付き判決を下した。
■人が人を裁く
 裁判に国民の視点や感覚を反映させ、司法への理解と信頼が深まることを期待し、2009年から始まった裁判員裁判。少年法や民法などの改正に伴い、23年以降は裁判員に選ばれる対象年齢が18歳以上に引き下げられることになった。
 今回の模擬裁判はこうした経緯を踏まえており、高校生や大学生が架空の事件に対する裁きに頭を悩ませた。
 最高裁が裁判員裁判の実施状況をまとめた統計(2009年8月~22年8月末)では、有罪判決1万4646件のうち、執行猶予付き判決は2581件(刑の一部執行猶予は除く)。執行猶予付き判決の中で最も割合が多い罪名が殺人罪で、655件(約25・4%)に上った。
 通常、殺人罪の法定刑は死刑か無期または5年以上の懲役だが、事件に至った事情や経緯などを考慮して減刑し、3年以下の懲役刑を選ぶことで執行猶予付き判決を下すこともできる。
 統計で示された件数もこうした過程を経て、人をあやめた罪に問われた被告に対し、執行猶予付き判決を下したと思われる。
 模擬裁判終了後、裁判員役を務めた高校3年の男子生徒(17)は「情状と行為に対する論理的な考えへの意見を聞くたび、判断が揺れ動いた」と打ち明けた。
 有罪か、無罪か。実刑か、執行猶予付きか。刑の長さは-。裁判での決定は一人の人生に大きく関わることになる。それが、たとえ罪を犯した加害者であったとしても。だからこそ、男子生徒の次の一言は重要だと思った。「責任があるからこそ、裁判員に選ばれたときは自分の意見はしっかり言いたい」
 あなたならこの事件、どう判断しますか。

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