<戦後70年 島守の心 島田叡と沖縄戦>(3)迫る地上戦
2015/06/25 17:00
島守の塔のそばにある石碑。島田は辛苦を共にした県職員とまつられている=沖縄県糸満市摩文仁
■「命のため」疎開を陣頭指揮
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苛烈な地上戦が始まる2カ月前の1945(昭和20)年1月31日、第27代沖縄県知事に着任した島田叡(あきら)は、県民の生命を守るため、疎開促進と食糧確保の陣頭指揮を執る。
知事官房の職員だった板良敷朝基(いたらしきちょうき)(97)は回想する。「部下への指示、説明は丁寧でした。空襲時も動じずに空をにらみ、状況を把握しようとしていた。皆が勇気づけられ、一生懸命に働きました」
島田は、住民の疎開促進へ人口課を創設。浦崎純(故人)を課長に任命した。制空権、制海権を米軍に握られる中、沖縄を脱することは命がけだった。
困難な任務を前にした浦崎に、島田は意義を説いた。浦崎は著書「消えた沖縄県」(65年、沖縄時事出版社)に、こうつづる。
「生めや増やせの国策とは逆に、夫婦離ればなれにさせる役目は辛(つら)いだろう。だが命を保障する緊急措置だから、頑張ってくれ」
戦火を避け、昼となく夜となく北へ北へと移動する老人や子ども、女性の列も絶えなかった。浦崎は記す。
「もの悲しい情景だった。沖縄一千年史のどの頁(ぺーじ)にも、これほどもの悲しい情景はみあたらなかっただろう」
2月中旬。板良敷も妻と生後1カ月の長男を大分県に疎開させることを決意する。
「危険な海を渡る家族とは、今生の別れと覚悟しました」。ほかに手段はなかった。
◇
疎開先で飢えさせないようにすることも急務だった。2月下旬、島田は台湾に飛び、米450トンを調達する。那覇港へ運び、一部は本島北部への避難者のために名護へも送った。米軍上陸の約2週間前。何も恐れぬ行動ぶりは、既に死を覚悟していたようにも映る。
4月、米軍が上陸。戦局は悪化し、板良敷は北部の山中に逃れる。飢えとの闘いだった。ある集落の倉庫に、米が積んであるのを見つける。
「それを食べて十数日をしのいだ。あの時期にあんなに多くの米があるなんて、島田知事が台湾で確保した米としか考えられない」
板良敷は辛うじて生き延びた。戦後、家族とも再会を果たす。
疎開者は本土に5万人、本島北部へ15万人と推計される。飢えやマラリアで亡くなった人は少なくないが、島田が尽力した政策で多くの人が救われたこともまた、疑う余地がない。=敬称略=
(津谷治英)