【5】真夜中の避難所 「ここはいっぱいやで」 文化部記者(当時)竹内章ネクスト編集部長

2019/12/04 11:19

焼け落ちた街。乗用車が黒焦げになっていた=1995年1月17日午前、神戸市長田区若松町10

 1月18日夜、神戸市中央区の生田川近くの自宅に、着替えと仮眠に戻った。街灯は消え、一部損壊と判定されたアパートに人けはない。玄関ドアを開けっ放しにして横になった。 関連ニュース 映像写真部員、初めてのフィルム撮影 36枚撮り1650円!…シャッターを押せない 一枚一枚、刻む思い出 こども園の教諭が園児の尻や頭たたく 「トライやる」の中学生が目撃、学校に通報 神戸・須磨 松方ホールで「スーパーストリングス」公演 佐渡裕さんゆかり、サプライズ登場も 神戸

 がれき、黒煙、サイレン。地震から2日間の光景が浮かぶ。「あの揺れがまた来たら」。不意に心細くなり、毛布を抱え近くの小学校に向かった。電気が消えた教室の入り口で、軟らかいものを踏んだ。誰かの足。「ここはいっぱいやで」と男性の声。家に戻る気力はなく、廊下にへたり込み朝を待った。
 神戸市の記録では、避難者のピークは24日の23万6899人。18日は22万2127人が避難所で夜を過ごしたとある。
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 発生の日。フラワーロードや生田新道のあちこちで、ビルが傾いていた。長田区の現場に向かうよう指示され、同僚と車を西に走らせた。兵庫区の大開通交差点では、陥没した道路に車が水没していた。長田に着いたころ、炎が辺りを焼き尽くしていた。感情が高ぶったのは最初だけ。ラジオが次々に伝える想像を絶する情報に、2人とも黙りこくった。
 翌18日は、灘区や東灘区を歩き回った。家屋がつぶれた場所では大抵同じにおいがした。古い家を解体した時のそれ。うなだれる人に「大丈夫ですか」と的外れな言葉を掛けてしまったように思う。
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 神戸市役所に詰めたのは、19日以降だった。1号館ロビーには大勢が避難する中、対策本部の発表をまとめるのが主な仕事。通水の進捗(しんちょく)、再開した市バス路線、臨時ファクス設置、営業中の風呂…。それら市民向けの情報は、「がんばろう」と題した朝刊のコーナーに集約された。
 地味な仕事に意気は上がらず、不遜にも先輩に「外の取材に行きたい」と不満をぶつけたことがあった。災害時の生活情報がどれほど大切か、気づいたのはずっと後のことだ。
 何もできないが、街を見ておこう。市役所からの帰りは自転車で遠回りした。日没後の三宮は暗く、明るい道を選んだ。幹線道路からがれき撤去が始まり、移動販売の車や屋台を見つけては立ち寄った。
 明かりが戻った幹線道路から奥に入ると、手つかずの倒壊家屋が多数あった。17日のままだった。

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