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赤松則祐(そくゆう)(1311~71年)は、円心の三男として生まれ、本来は当主となるべき立場ではない。そのため、幼い頃に仏門に出された。しかし、円心の跡を継いだ嫡男範資(のりすけ)が翌年に没すると、次男貞範(さだのり)を差しおいて惣領(そうりょう)家を継ぎ、播磨守護としての地歩を固めた。南朝への転属など鮮やかな知略を繰り出し、知将の評価が高い。僧籍のまま当主を継いだ三男の出世物語を追う。(田中伸明)
1350年、円心の死により惣領家を継いだ嫡男の範資は、翌年に亡くなる。しかし、則祐の生涯に詳しい兵庫県立歴史博物館学芸員、前田徹さん(49)は「長兄の死ですんなりと家を継いだわけではない」とみる。次兄の貞範がおり、範資の嫡男、光範(みつのり)も成人していた。混沌(こんとん)とした状況の中、則祐が当主の座を得た要因は、南朝転属という思い切った行動だった。
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