(2)足跡を巡る・神戸編 焼き打ちに消えた本店
2016/04/10 20:48
旧みかどホテルを改装した鈴木商店の本店。米騒動で焼き打ちされた=神戸市中央区栄町通7
1918(大正7)年8月12日夜。生活に困窮した暴徒が放った火が、荘厳な洋風建築の鈴木商店本店を焼き尽くした。
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銀行や商社が軒を連ね、「東洋のウォール街」と呼ばれた神戸市中央区栄町通。猛火は神戸新聞社や郵便局も襲った。米騒動による焼き打ち事件だ。
「湊川公園を出た群衆は二手に分かれて進み、本店の前で合流して勢いづいたそうです」。鈴木の流れをくむ非鉄金属メーカー、太陽鉱工(神戸市中央区)顧問の金野(こんの)和夫さん(77)は悔しそうに話す。跡地では高層マンションが建設中だ。
その後、本店は約1キロ東に移転し全盛期を迎えたが、27(昭和2)年4月に金融恐慌で破綻。約半世紀の歴史の幕を閉じた。
兵庫県内には日本最大の商社だった鈴木商店の隆盛をほうふつとさせる場所が数多く残る。創業の地神戸を巡った。
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【「鉄の町」】鈴木商店が礎を築き、日本の三大鉄鋼メーカーの一角を占める神戸製鋼所。JR灘駅の南西、神鋼記念病院(神戸市中央区脇浜町1)の入り口には「神戸製鋼所発祥の地」の碑がある。
1905(明治38)年、経営難に陥った小林製鋼所を買収し直営工場とした。「産業立国」を志した鈴木商店の番頭金子直吉が旗を振り、多額の資金をつぎ込んで苦難の末に製鋼技術を確立した。
南側のHAT神戸には神鋼の神戸本社が立つ。一帯はかつて、神鋼と川崎製鉄(現JFEホールディングス)が工場を構えた「鉄の町」だった。
近くの敏馬(みぬめ)神社脇には大正期、鈴木の子会社日本輪業が工場を置いた。いまの自動車部品メーカー、ニチリン(姫路市)の前身に当たる。
【唯一残る「鈴木」】「鈴木」の名を継ぐ唯一の企業、鈴木薄荷(はっか)(灘区下河原通1)の本社は、住宅街の一角にあった。辺りにはさわやかなミントの香りが漂う。
商品のハッカ油には鈴木商店と同じ「かね辰(たつ)」マークが輝く。食品や医薬品向けメントールの国内大手だ。
「ちょっと待ってください。いいものがあります」と、常務の高畑新一(46)が持ち出したのは、木彫りの大黒さん。鈴木商店の番頭金子から繁栄を祈って贈られたという。高畑は、鈴木商店ロンドン支店長として活躍し、日商(現双日)会長も務めた高畑誠一のひ孫に当たる。
【よねの胸像】女店主鈴木よねが寄進し再興した祥龍寺(灘区篠原北町3)には、よねの胸像がある。鈴木を支えた番頭金子や同じく番頭の柳田富士松らの頌徳(しょうとく)碑のほか、鈴木の元社員やその家族らでつくる「辰巳(たつみ)会」の供養塔も立つ。よねの長男、2代目岩治郎の娘婿でもある高畑誠一の墓がある。
【初の女子商業学校】よねは女性の教育に力を入れた。1917(大正6)年、わが国初の公立女子商業学校といわれる神戸市立女子商業学校(現市立神港高校、兵庫区会下山町3)の創設にあたり、現在の価値で数千万円を運営費として寄付した。
校長室には歴代校長と並んで、よねの顔写真がある。前校長の片山忠政(58)は「よねさんの教育への貢献はとても大きい。思いを未来に伝えたいですね」と話す。
同校は市立兵庫商業高校(北区)と再編・統合され、4月から神港橘(しんこうたちばな)高校に名前を変えて新たな歴史を刻む。
【大邸宅と借家】山陽電鉄東須磨駅の西、三宮のビル群が間近に見え、大阪湾を一望する高台。鈴木よねの邸宅跡(須磨区若木町2)は敷地約1万3千平方メートルの広大さで、現在は三菱重工業の社宅になっていた。
当時は子会社神戸製鋼所の煙突や、行き交う所有船が眺められただろう。
周辺には神戸岡崎銀行(神戸銀行などを経て現三井住友銀行)創業一族の岡崎邸や、一大財閥の小曽根邸など関西財界人の屋敷跡が集まる。海岸沿いの住友家の広大な別邸は、須磨海浜公園として整備されている。
南側斜面には邸内への通用口に使われた石積みのトンネルが残る。NPO法人須磨歴史倶楽部(くらぶ)の西海淳二(64)は「戦時中は防空壕(ごう)にもなっていました」
須磨の西、源平の合戦場となった一ノ谷には金子直吉の屋敷跡(須磨区一ノ谷町2)がある。ここで熊をペットとして飼っていた。ぜいたくを好まず、生涯ほとんど借家暮らしだった。
すぐ北側に、壇ノ浦の戦いで母と共に身を投げた安徳天皇が、居所である内裏を置いたといわれるほこらがひっそりと立っていた。
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続いて鈴木商店のものづくり拠点が残る相生、姫路を訪ねる。=敬称略=
(高見雄樹)
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