東日本大震災から1年が過ぎた。福島第1原発の事故もあり、復興は足踏み状態が続いている。現状は? 今後の展望は? 被災地の地元新聞である河北新報の記者と、阪神・淡路大震災の経験を生かしながら東日本でも精力的に取材を続けるオランダ人ジャーナリスト、神戸新聞の記者が話し合うフォーラムが、神戸で開かれた。タイトルは「1・17~3・11メモリアルフォーラム『今こそ、伝えたい』~被災地ジャーナリストからのメッセージ」。さまざまな角度から、復興への課題を探った。
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「巨大複合災害~『人間復興』を求めて~」
基調講演 経済評論家・内橋克人氏
■“本当の復興”目指そう ■
今、恐れるのは国内の温度差。東日本での危機感が必ずしもその他の地域に伝わっていない。そのなかで、神戸の人びとは、17年前の悲惨を忘れず、今回の巨大災害の被災者に心から寄り添い、惜しみない支援を続けている。まず心からの敬意を表したい。
その神戸でも、自ら震災を体験し、苦節を嘗(な)めた人は少なくなり、今では、あの惨禍を知るものは市民全体の半分になってしまった、といわれる。
過ぎゆく時の虚しさに心震える思いだ。
私たちは今回の「3・11」とともに、阪神・淡路大震災の「1・17」、さらに神戸大空襲に打ちのめされた「3・17」と「6・5」の悲惨を絶対に風化させてはならない。生き行く命の尊厳が足蹴にされた歴史を、骨の髄まで刻み込んで生きなければならない。
東京では阪神・淡路大震災からの「創造的復興」に学べ、と声高に叫ばれる。が、本当に学ぶべきモデルだったのか。復興の象徴として築かれた神戸空港、また新長田の高層ビル。さらには巨額の市債。今、現実は何を語っているだろうか。復興を掲げて投入された公的資金によって建物や道路、空港など、壮大なインフラ構築が進められた。だが、被災者の生活再建は後回しとなり、苦難は今も去っていない。最優先されるべきは何をおいても「人間復興」でなければならないはずだ。
3・11の後、こうした社会のあり方を転換しなければ、という悲痛な叫びが盛り上がった。が、それから1年、「社会転換」への悲願も期待も、急速に萎(な)え始めたようにみえる。私たちの生きる日本列島は、過去の地震静穏期を過ぎ、今は動乱期に入った、とされる。次の巨大複合災害までに、何としても社会のあり方を変えておかなければならない。
今、忘れ得ぬ言葉がある。三陸海岸のある自治体の首長が絶句された。「家が流されても、田んぼが消えても、私たちには海がある、と思っていた。今、その海から放射性セシウムです」と。
東日本大震災は巨大複合災害。自然災害と原発事故という人災の複合する最悪の事態だ。
昨年9月11日、東京・明治公園での「さようなら原発」大集会には6万7000人の人びとが馳(は)せ参じた。壇上に立った福島の女性は「私たちは静かに怒りを燃やす東北の鬼です」と訴えた。「どうか、フクシマを忘れないでください」と。
震災後、「絆」という言葉が安易に唱和される。
絆とは何か。牛や馬を牧舎につなぐくびきのことだ。市場競争至上主義で社会統合をズタズタにしておいて、後は個人と個人の絆で復興だ、と。狡知(こうち)にたけた美句に乗せられることなく、今こそ真の人間復興を求めて、「国は、政府は、なすべきをなせ」と迫るべきときではないか。
真に被災者に寄り添う心を、神戸人は持ち続けることができると確信している。
パネルディスカッション
| パネリスト | ||
|---|---|---|
◆成田浩二氏 |
![]() ◆キエルト・ドゥイツ氏 |
◆岸本達也氏 |
桜間 3人はいずれも東北の被災地で取材を続けている。
ドゥイツ 私は約30年前に来日し、阪神・淡路大震災の時は芦屋に住んでいた。自分に何ができるか考え、近くの避難所に毎日温かい食べ物を届けた。実情を世界に伝えようとオランダの新聞、テレビ、ラジオに電話し、それからジャーナリストになった。経験者だから分かることがある。これまで、アジアであった大きな地震はすべて現地で取材した。
東日本大震災では、発生翌日に新潟経由で被災地へ。オランダから来たほかのジャーナリストは原発事故でみんなすぐに帰った。外国で話題になったのは被災者が我慢強く、暴動もなかったこと。私は「我慢」という言葉を何度も報道した。
ただ、感情が爆発する時がある。ある村長にインタビューしたとき「あと3カ月で引退するつもりだったが、この町を捨てられない」という言葉の後、すごく泣き出した。そして、すぐ普通の表情に。そんなことを何回も経験した。
福島では行政が(放射能被害の疑いがある)牛を処分すると説明していたが、取材すると全国へ出荷されていた。日本人ジャーナリストも政府も分かっていたはずなのに、なぜすぐ問題にしなかったのか理解できない。
| 司会 |
|---|
◆桜間裕章氏 |
ドゥイツ氏 メディアの姿勢に疑問
桜間 成田さんは現場キャップとして最前線で取材している。
成田 宮城県南三陸町の支局記者は、幼稚園児の子供を連れて高台に避難し、土煙をあげながら津波が家々をのみ込む写真を撮っている。最大津波は高さ約15㍍、ビル4階ぐらいに相当する。南三陸町は1万7000人ほどの町だが、約900人が犠牲になった。
私は4人ぐらいのチームに加わり、主に海岸沿いの石巻市、女川町、東松島市を取材して歩いた。直後は混乱を極めた。沿岸部は冠水し、がれきで歩くこともできない。
石巻市の大川小学校では108人の児童のうち70人が亡くなり、今もまだ4人が行方不明。しばらくは遺体を探す親たちの姿が絶えなかった。ある夫婦は6年生の長女を探し「腕一本、指一本でいいから見つけたい」とがれきと泥をかき分けていた。トラック運転手のお父さんは、仕事をやめて重機の資格をとり、2年生の長男を捜すため毎日ショベルカーで泥をかき出していた。
河北新報は震災当日の夜に号外を発行し、毎日避難所に配り続けた。生活関連情報や安否情報を詳しく掲載。新聞はライフラインだと実感した。
成田氏 新聞の重要性を実感
桜間 17年前、神戸新聞の記者が“一日一涙”と言ったことを思い出した。
岸本 1994年に神戸新聞社へ入り、10カ月後に阪神・淡路大震災。あれを超える大災害はないだろうと勝手に思っていた。東日本大震災の発生から1週間後、現地入りした。被災地では思い出の品などを探し、肉親を捜す被災者を取材し、どう伝えればいいのか悩んだ。阪神・淡路とは状況が全く異なった。
神戸新聞の腕章をみると、多くの被災者が「神戸も大変でしたね」と声をかけてくれた。17年前と同じ悲しみや怒りが繰り返されていることが悔しかった。阪神・淡路で問題になった高齢者や障害者ら災害弱者は、東北でも本当に過酷な状態にある。一方で、ふれあいセンターがあって神戸のボランティアが支援しているケースもある。生かされている教訓もある。
現地では、これから孤独死が心配だ。すでに関連死は1000人を超えたのではないか。
岸本氏 震災関連死の増加懸念
被災地の状況を写真などで紹介するパネリストら=神戸市中央区、神戸市産業振興センター ハーバーホール |
桜間 1年たっていろんな課題が浮かび上がっている。
成田 課題だらけだ。失業をどうするか。生活再建支援金の300万円では家も建てられない。二重ローンも多い。仮設に閉じこもり、アルコールに浸り、気力がなくなる負の連鎖に陥る人もいる。街が消え、白紙から再建しないといけない。建築制限や地盤沈下などで家を建てられない。集団移転も、住民の合意形成が難しい。
震災遺児は1500人以上。両親とも亡くなったのが200人以上。子供たちの心の復興をどう支えるか。
河北新報では震災前から防災特集面で津波への警戒を呼び掛けていた。しかし、結果的に被害を防げなかった。今後も警戒心を継続する必要がある。
ドゥイツ 同じ震災は二度とない。想像力が大事。まちの強いところ、弱いところを知ることだ。最も恐ろしいことを想像しよう。東京なら富士山が爆発したらどうかとか。日本のルールは厳しすぎる。建築許可に何カ月もかかるなんて。政府は会社の再建にお金を出すと言っているが、出るのは再建後。目の前にお金があっても触れない。メディアに問題も。原発情報を政府や東京電力が出さないことにもっと抗議すべきだ。
成田 被災地では、まだ行方不明者を捜す人がいて復興という言葉を使うのもためらわれる。ボランティアや支援物資に励まされたが、時間がたつと関心が薄らぐのでは、と心配している。
岸本 神戸の震災も終わっていない。震災障害者の苦境は最近になって浮かび上がってきた。まだ、知られていない問題もある。
―私たちは「こころをつなぐプロジェクトFromひょうご・神戸」を応援します―
※この事業は、「公益財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構」と「ひょうご安全の日推進県民会議」の助成を受けて実施しています。
- ○アスタッフ株式会社 ○株式会社浦美術館 ○さんちか
- ○神戸国際会館SOL ○JAバンク兵庫 ○株式会社神明
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- ○三井ホーム株式会社神戸支店 ○六間道四丁目商店街
- (順不同)









