マイウェイ汀の物語 1・17から3・11へ(5)初の東北被災地

2021/02/19 11:24

東日本大震災の遺児への支援を呼び掛ける小島汀さんら、あしなが育英会のメンバーら=2011年3月23日、JR元町駅前

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 兵庫県立舞子高校(神戸市垂水区)環境防災科で学ぶ小島汀(おじまみぎわ)(29)=芦屋市=が将来を悩んでいたとき、先生はこう言った。
 「どんな仕事をしようが、どこかで防災につながっている。やりたいことをやればいい」
 当時、教育に興味があった汀は、関西大文学部の教育文化専修に進んだ。
 大学1年の2011年3月11日、東日本大震災が起きる。
 最大震度7の激しい揺れと大津波。死者の数が、どんどん膨らんでいく。
 居ても立ってもいられなくなった。12日後、汀はJR元町駅前に立ち、寄付を呼び掛けていた。
 「あしなが学生募金」の取り組みで、阪神・淡路大震災の遺児ら約50人が集まった。新聞記者から取材を受けた汀は「被災地の状況が自分の経験と重なり、親を失った子どもたちが心配」と話した。
     ◇
 その後、汀は大学を休学し、アフリカ・ウガンダへ向かう。エイズ孤児の学習支援をするのは前から決めていたことだけど、東北が気になって仕方がなかった。
 ウガンダから日本に戻り、汀が初めて東北の被災地に入ったのは、震災1年後の12年3月のことだ。
 「一緒に行かへんか」と声を掛けたのは、先生だった。舞子高校環境防災科長だった諏訪清二さん(61)。汀の高校3年間を見守り、「やりたいことをやればいい」と助言した諏訪さんは、東日本大震災後、たびたび現地に入っていた。
 阪神・淡路で母を亡くした1期生の先輩も一緒だった。諏訪さんには、2人に会わせたい人がいた。
     ◇
 その人とは、岩手県釜石市立釜石東中学校副校長、村上洋子さん(63)。防災教育に熱心で、震災前から諏訪さんと交流があった。
 校長室で面会した村上さんは汀に、子どものころの気持ちや、先生のどんな言葉がうれしかったか、などを聞いた。帰り際、いすから立ち上がった汀は、気持ちが抑えられなくなる。
 「東北の人が悲しんでいるのに、私、何もできない…」。涙がこぼれる。
 車窓から見つめた沿岸部の情景が浮かんだ。レンタカーのナビには町が表示されるのに、そこには何もない。海沿いの校舎は、津波に襲われたままの姿で立っていた。
 「自分はちっぽけだ」。ずっと訪れたかった東北で、打ちのめされていた。(中島摩子)
【バックナンバー】
(4)舞子高環境防災科
汀さんが追悼式で読んだ作文全文
(3)レインボーハウス
(2)3歳で遺児
(1)プロローグ
【動画】汀の物語 二つの被災地を生きる理由

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