戦没オリンピアン、全国に38人 平和の祭典から戦場へ 兵庫関係は3人確認
2021/08/13 00:30
神戸新聞NEXT
平和の祭典である「オリンピック」に出場後、戦争で命を落とした「日本人戦没オリンピアン」が38人に上ることが、広島市立大名誉教授の曾根幹子さん(68)の調査で分かった。兵庫県出身や遺族が県内に在住など、兵庫に関係する戦没オリンピアンは少なくとも3人という。東京五輪が開催された戦後76年の夏、その存在が平和の尊さを訴えている。
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曾根さんもオリンピアンで、1976年のモントリオール大会の陸上走り高跳びに出場した。その後研究者となり、戦後70年を前に、原爆症で亡くなったオリンピアンの調査をしたのがきっかけとなった。
曾根さんによると、戦没オリンピアンの定義は、戦争やテロなどによって亡くなったオリンピック選手・役員。過去に名簿作りが行われたドイツでの定義を参考にしたという。
日本体育協会や大学、博物館などが作成した戦争犠牲者リストを調べ、遺族にも面会。2021年7月末現在で38人を確認した。
出場競技は競泳や陸上、サッカー、ホッケーなどで、1920年のアントワープ大会以降、冬季も含め六つの大会で確認された。
死没場所は、ルソン島やミンダナオ島、ガダルカナル島など太平洋戦争の激戦地のほか、旧ソ連のシベリアの収容所もあった。東京空襲での死者もいた。
ロサンゼルス大会の馬術で金メダルを獲得、ベルリン大会にも出場し「バロン西」と呼ばれて人気を博した西竹一さんは硫黄島で戦死。ベルリン大会の競泳100メートル自由形で銅メダルに輝いた新井茂雄さんは、約3万人が死亡したとされる「インパール作戦」で命を落とした。
兵庫関係では、ロサンゼルス大会の競泳100メートル自由形で銀メダルの河石達吾さん、同大会の水球に出場した土井修爾さん、ベルリン大会のサッカーで貴重なゴールを挙げた右近徳太郎さんの3人が明確になっている。
曾根さんによると、ベルリン五輪の水球に出場した若山滝美さん(広島県出身)について、1984年の一部報道で妻が西宮市在住となっているが、行方が分からず、遺族を探しているという。
また、実際には戦病死した選手が「病死」と扱われているケースがあったり、五輪に参加したが出場機会がなかった選手の把握が難しかったりし、「現在のリストは、今後も新たな情報があれば更新していく」という。曾根さんは「戦没オリンピアンの群像は、戦争を知らない世代が『戦争って何?』と考える手がかりになるはず」と話す。(中島摩子)
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