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100メートル自由形決勝で銀メダルが確定した直後の河石達吾選手(河石達雄さん提供)
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100メートル自由形決勝で銀メダルが確定した直後の河石達吾選手(河石達雄さん提供)
日の丸のユニホーム姿で仲間と写真に納まる土井修爾選手(右端、佐々木叔子さん提供)
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日の丸のユニホーム姿で仲間と写真に納まる土井修爾選手(右端、佐々木叔子さん提供)
ベルリン五輪に出場したサッカー日本代表チーム。前列左が右近徳太郎選手(石井幹子さん提供)
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ベルリン五輪に出場したサッカー日本代表チーム。前列左が右近徳太郎選手(石井幹子さん提供)

 世界最高峰の舞台で輝いた選手たちがいた。この夏の東京五輪と同じように。90年近く前のことだ。だが、選手たちはその後、いや応なく戦渦に巻き込まれていく。命が奪われた「戦没オリンピアン」の話をしたい。兵庫ゆかりの3人の栄光と、その先を-。(中島摩子)

■ロサンゼルス五輪 競泳100M自由形 河石達吾選手

 1932年8月7日午後3時30分。ロサンゼルス五輪の競泳男子100メートル自由形決勝がスタートした。

 6選手が鮮やかに飛び込む。第2レーンは慶応義塾大学の河石達吾選手。50メートルのターン時点では5位だったが、必死のラストスパートで外国人選手を抜き去り、58秒6の五輪タイ記録で銀メダルを獲得した。

 金メダルは58秒2の五輪新記録をたたき出した宮崎康二選手。3位は米国代表のシュワルツ選手だった。

 河石選手は広島県出身で、大学卒業後は大同電力(現・関西電力)に勤務。神戸出身の輝子さんと結婚し、同市東灘区の御影で新婚生活を送った。その後、召集されて硫黄島に向かい、帰ってくることはなかった。33歳だった。

 河石選手の一人息子、達雄さん(76)は今、尼崎市に暮らす。リビングには、父が受け取った五輪の表彰状が大切に飾ってある。

■ロサンゼルス五輪 水球 土井修爾選手

 1932年のロサンゼルス五輪。水球には、ドイツ、米国、ハンガリー、日本の4カ国が出場した。

 水球日本代表は五輪初出場。優秀な競泳選手を集めて練習を重ねたが、本番まで外国チームと戦ったことはなかったという。結果は3戦全敗で4位だった。

 日本代表の1人が、早稲田大学法学部の土井修爾選手だった。広島県出身。五輪後、母校の同窓会誌に文章を寄せている。

 「勝ちたかった。一點でも取りたかった。だが實力の差如何とも為し得ない」

 敗因に、競技生活の短さや外国選手との体格の差などをあげ、「敗因除去の為め、荊の道をたどるのが吾々の義務であり責任である」と締めくくった。

 だがその後、陸軍に所属し、広島で訓練中、皮膚の細菌感染症を患い死亡した。28歳だった。残された妻は原爆死。長女の佐々木叔子さん(87)は今、神戸市垂水区に暮らしている。

■ベルリン五輪 サッカー 右近徳太郎選手

 サッカー日本代表が初めてオリンピックに出場した1936年のベルリン五輪。8月4日の初戦の相手は、優勝候補の一角、強豪スウェーデンだった。

 前半、体格に勝るスウェーデンが2点を先制。一方的な試合かと思われたが、後半4分、日本が反撃の1点を挙げる。さらに同17分、「右インサイド」の神戸出身、右近徳太郎選手がネットを揺らした。同点ゴール。同40分には追加点も入り、その後はスウェーデンの猛攻を耐え抜いた。

 3-2で日本が勝利。世界を驚かせた試合は「ベルリンの奇跡」と呼ばれた。だが、日本は次戦でイタリアに大敗し、五輪を去る。

 奇跡の立役者の1人、右近選手は神戸一中(現・神戸高)の出身だ。「天才」と称されたフットボーラーはしかし、南太平洋のブーゲンビル島で命を落とす。

 「墓島」と呼ばれた激戦地。30歳だった。

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