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陸軍に所属した河石達吾さん(河石達雄さん提供)
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陸軍に所属した河石達吾さん(河石達雄さん提供)
戦地から送られてきた手紙。「河石達雄」とひときわ大きく記してある(撮影・小林良多)
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戦地から送られてきた手紙。「河石達雄」とひときわ大きく記してある(撮影・小林良多)

 ロサンゼルス五輪(1932年)の競泳男子100メートル自由形で銀メダルを獲得し、脚光を浴びた12年後。

 河石達吾さんが44年夏に向かった先は、小笠原諸島の硫黄島だった。

 その前年の秋、広島出身の達吾さんは神戸出身の輝子さんと結婚。2人は神戸市東灘区の御影で暮らし始めたが、太平洋戦争の戦局は悪化の一途をたどり、陸軍から2度目の召集を受ける。

 出征直前、達吾さんは親族に「生きて帰れません」とひそかに告げていたらしい。そして、輝子さんを残し戦地に赴いた。新婚生活はわずか9カ月間だった。

 妻のおなかには赤ちゃんがいた。

     ◆

 硫黄島は、東京の南方、約1250キロに位置する。

 米国が日本本土を空襲するための拠点として狙い、日本は「本土防衛の要」と位置づけて約2万人の兵士を送り込んだ。

 達吾さんの出征から半年後の12月6日、妻は神戸で男の赤ちゃんを産んだ。

 遠く離れた硫黄島で知らせを受けた達吾さんから輝子さんへ、手紙が届く。

 〈吉報に接した時の感じは 競技に於いて勝利を獲た時のそれと同じだ〉

 〈今日より親爺となった僕に新たな覚悟が必要であると同様 母となった君の責任も軽くはない。産後の養生にはどうか無理のない様充分注意して呉れ〉

 誕生の喜びにあふれ、妻をいたわる言葉が続く。

 12月30日付けの別の手紙には、名前が大きく記してあった。

 〈河石達雄 と呼ぶと いかめしい中にやわらかみもある様に思はれ 非常に立派だ などと 独りで悦に入って居る〉

 死と隣り合わせの戦地で、顔も見たことがない息子に命名し、その未来に思いをはせる。便せん4枚にびっしりとつづった。

 〈将来日本一の造船技師たるべく勉強させ度いと思ふ(中略)達雄が歩けるようになったならば 日曜毎突堤に出掛けて船を見せてやらう。精巧な船の玩具をあたえよう〉

 〈達雄は宝であると同時に 生まれたと言ふそのことだけで 随分親爺にあれこれ考えさせ楽しませて呉れる。有難いことだ。達雄万々歳だ〉

     ◆

 年が明け、45年最初の手紙。〈元気で新年を迎えました 覚悟も新です 南の島から 君と達雄初め皆様の招福を祈る次第です〉

 米軍機の襲撃にふれつつも、〈何のことはなかった〉と記してある。そして、〈僕のことを案ずることは要らない 達雄を愛し 母子共に 明朗な日を 送って呉れます様 お祈りして居ます〉。

 米軍が硫黄島に上陸するのは2月。これが、息子達雄さん(76)=兵庫県尼崎市=の手元に残る「親爺」の最後の手紙になった。(中島摩子)

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