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佐々木叔子さん。戦争のことを話してみようと思うようになったのは、最近のことだ=神戸市垂水区(撮影・吉田敦史)
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佐々木叔子さん。戦争のことを話してみようと思うようになったのは、最近のことだ=神戸市垂水区(撮影・吉田敦史)
広島観音高校の同窓会に寄贈した記念メダル=広島市西区
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広島観音高校の同窓会に寄贈した記念メダル=広島市西区

 父の「栄光」に触れたのは、つい3年前のことだ。

 九州にいた叔父が亡くなり、遺品整理をしていた親族が、ロサンゼルス五輪の記念メダルを見つけた。

 神戸に郵送されてきたメダルは「OLYMPIAD 1932」「LOS ANGELES」の文字。鈍く光っていた。

 神戸市垂水区に暮らす佐々木叔子さん(87)の父、土井修爾さんは、水球選手としてロサンゼルス五輪に出場した。

 水球日本代表は五輪初参加。3カ国と対戦して最下位に沈んだが、水球界にとって確かな一歩を刻んだ。

 だが、叔子さんが父の過去にゆっくり向き合うことは、これまでなかった。11歳で終戦を迎えてから、生きるのに必死だったから。

     ◆

 広島県出身の父は五輪後に結婚した。弁護士を目指して法律の勉強に励みながら、日本水上競技連盟の幹事も務めていたという。

 叔子さんが覚えているのは大きな背中だ。「はいどうどう」。お馬さんごっこをしてくれた。

 そんな父が召集されたのは五輪出場から5年後。広島が拠点の陸軍第5師団に所属し、中国戦線に向かう予定だった。

 直前、無線を使った訓練中に耳を負傷し、丹毒(細菌感染症)になる。召集の翌年夏、広島陸軍病院で死去した。叔子さんは4歳だった。

 その7年後。叔子さんと妹、母、祖父母が暮らしていた広島に原爆が投下される。

 「Bが来とる!」。叔子さんがいた学校で、B29爆撃機を見た男の子が叫んだ。ピカっと光り、熱い爆風が一気に襲ってきた。

 姉妹は当時、離れた場所に疎開していて、母が迎えにくるのをずっと待った。

 だが、実家がある市中心部から歩いてくる人は「皮が全部ぶらさがったり、真っ赤な裸だったり。口で言うても分からないくらい」。

 後日、広島県産業奨励館(原爆ドーム)に近い実家の台所で、母の骨が見つかった。確認できたのは、頭蓋骨の近くに愛用していたヘアピンがあったから。祖父と祖母も爆死した。

 保護者を失った姉妹は親類宅に身を寄せた。生活は一変した。

 「悲しみを味わっている間なんてなかった」。周囲から「叔子のお父さんはオリンピックに出たんだよ」と言われることもあったが、そうなんだ、と思うだけだった。

     ◆

 叔子さんは20歳で結婚し、広島を離れた。3人の子育てに追われ「父のオリンピック」は遠のいた。

 一方で、原爆の記憶はこびりついていた。8月は気持ちがふさぎ、ベッドに横になった。甲状腺が腫れ、乳がんと胃がんを患った。

 思いがけず対面した五輪のメダルは、広島の父の母校同窓会に寄贈した。未来に伝えてもらえるように。

 「私はもう87歳ですから」-。

 戦争に苦しめられた人生だった。「ああいうのは一切嫌です」。戦後76年の夏、声を絞り出した。(中島摩子)

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