深ヨミ

<赤松氏の血脈>(5)政則 幼君、後期赤松氏の祖に

2021/09/04 05:30

 室町時代にも「忠臣蔵」はあったのだろうか。将軍を暗殺した赤松本家(惣領家(そうりょうけ))が滅んだ後、旧臣の一部は〝決死隊〟となり、後南朝の拠点・吉野へ向かった。皇室の神璽(しんじ)を取り戻せば、見返りにお家再興を認める-。朝廷や幕府との密約を命がけで果たすためだった。旧臣たちが担ぎ出したのは、まだ幼い次郎法師丸。後に政則と名を改め、播磨、備前、美作(みまさか)の守護へと返り咲いた。「威勢無双 富貴比肩の輩無し」の評もあったとされる「後期赤松氏の祖」の素顔に迫る。(段 貴則)



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1応仁の乱契機 播磨など旧領3カ国奪還


 赤松満祐(みつすけ)が将軍足利義教(よしのり)を暗殺した嘉吉(かきつ)の乱(1441年)の2年後、都では後南朝側が、皇位を示す「三種の神器」のうち神璽を奪う禁闕(きんけつ)の変が起きる。


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