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室町時代にも「忠臣蔵」はあったのだろうか。将軍を暗殺した赤松本家(惣領家(そうりょうけ))が滅んだ後、旧臣の一部は〝決死隊〟となり、後南朝の拠点・吉野へ向かった。皇室の神璽(しんじ)を取り戻せば、見返りにお家再興を認める-。朝廷や幕府との密約を命がけで果たすためだった。旧臣たちが担ぎ出したのは、まだ幼い次郎法師丸。後に政則と名を改め、播磨、備前、美作(みまさか)の守護へと返り咲いた。「威勢無双 富貴比肩の輩無し」の評もあったとされる「後期赤松氏の祖」の素顔に迫る。(段 貴則)
赤松満祐(みつすけ)が将軍足利義教(よしのり)を暗殺した嘉吉(かきつ)の乱(1441年)の2年後、都では後南朝側が、皇位を示す「三種の神器」のうち神璽を奪う禁闕(きんけつ)の変が起きる。
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