プロローグ 創業
繊維機械から発展、光る経営センス
2020年は新型コロナウイルスに揺さぶられた。同じくパンデミック(世界的大流行)だったスペイン風邪が猛威を振るった100年前。今の神戸市兵庫区で、繊維機械メーカー「川西機械製作所」が1920(大正9)年に産声を上げた。
創業者は川西清兵衛。毛織物メーカーの国内最大手で知られる日本毛織を、1896(明治29)年に起こした実業家である。
◇
川西機械は、豪州から輸入した羊毛をより合わせて糸にしたり、糸を生地に織り上げたりする機械を製造した。毛織物の需要増に応えたい日本毛織に織機を供給するためだ。背景には、第1次世界大戦で清兵衛が味わった苦い経験がある。
開戦した1914(大正3)年。ドイツに宣戦布告されたロシアから突然、日本に大量の軍服用生地の注文が舞い込んだ。面積にして約117万平方メートル。甲子園球場30個に相当する量で、その半分の製造を日本毛織が担った。
ところが、激しい戦火が災いして織機の調達難に直面した。頼りにしていた欧州製機械の輸入が途絶え、思うように増産できなかったのだ。織機の国産化の必要性を痛感した清兵衛は、大戦の終結後に毛織物の需要が伸びると読み、新たに設立した川西機械を通じて増産に走った。
川西機械は日本毛織だけでなく、他の毛織物メーカーにも織機を供給した。羊毛のみならず、生糸やレーヨン用の機械も手掛けたという。
◇
清兵衛は1865(慶応元)年、大阪・船場の商家の五男として生まれた。25歳で兵庫津の有力商家だった川西家の婿養子に。油の輸出入で成功し、地元の実業家から信望を集めると、彼らの出資を受けて96年に日本毛織を設立した。
その契機が、豪州産の羊毛輸入で鳴らした兼松房治郎との出会いだ。神戸発祥の老舗商社、兼松(東京)の創始者である。羊毛の生地は丈夫で保温性が高く、その将来性を房治郎から教わったのだった。
清兵衛は、日本毛織の主要な販売先を官公庁に絞った。生地の需要変動が激しい民間市場を避け、需要が安定的な軍や警察、鉄道省向けの軍服、毛布、制服に狙いを定めた。当時は新素材だったレーヨンも、リスクと収益性を慎重に見極めながら、安易に設備を拡張しなかったという。
繊維産業史を研究する神戸大准教授の平野恭平(41)は「安定、堅実、慎重な経営手法というと、経営者像が小さく映るかもしれないが、それは違う」としながら、「事業意欲にあふれる清兵衛は、実は壮大な事業構想を描いていた」と指摘。「その実現には収益源が欠かせず、中核となる日本毛織の経営が傾くことは許されなかった」と強調する。
清兵衛は持ち前の経営センスで、日本毛織や川西機械のほか、航空機メーカーや倉庫、鉄道会社などを次々に設立した。各社とも成長を遂げ、1940年代にかけて「川西財閥」と呼ばれる企業グループを形成した。戦後、川西機械の流れをくむ新明和工業、大和製衡、神戸工業(現デンソーテン)が誕生。いずれも、時代を彩る製品を送り出していく。
=敬称略=
(長尾亮太)