姫路

  • 印刷
西芝電機製品の進化を語る伊藤整さん=姫路市網干区浜田
拡大
西芝電機製品の進化を語る伊藤整さん=姫路市網干区浜田
西芝電機創立当時の工場(同社提供)
拡大
西芝電機創立当時の工場(同社提供)
社風にも通ずる「NSDK」の看板
拡大
社風にも通ずる「NSDK」の看板
神戸新聞NEXT
拡大
神戸新聞NEXT
盛り土の上を南北にまっすぐ延びる北沢産業網干鉄道の線路跡=姫路市網干区
拡大
盛り土の上を南北にまっすぐ延びる北沢産業網干鉄道の線路跡=姫路市網干区

 兵庫県姫路市網干区に古い線路跡が断続的に延びている。東京芝浦電気(後の東芝)が戦前、播磨進出に伴って計画した貨物線だ。当時は日中戦争が泥沼化し、軍需品の増産が急務に。同社は網干一帯に白羽の矢を立て、系列企業と工場を次々と構えた。主力の網干工場が操業を始めて80年。進出の経緯をたどると、関東の名門が播磨で描いた甲子園球場100個分にも及ぶ壮大な構想があった。(段 貴則)

■甲子園球場100個分の開発未完に

 真珠湾攻撃のちょうど1年前-。1940(昭和15)年12月8日、網干沿岸部で地鎮祭が行われていた。

 式辞に立った東京芝浦電気副社長、久保正吉は「将来、大東亜重工業の中心を形成する関係よりみれば、京浜、中京、阪神、北九州の工業地帯は、もはや飽和状態」と指摘し、こう続けた。

 「弊社は、瀬戸内海の枢軸に位置する網干に、姉妹会社の東京電気は(網干の北の)余部に工場を設置する決意に至った」。その背景には、瀬戸内海が一つの「河」に見なされるほど沿岸が工業地帯として開発され、新たな中心地になるという見立てがあった。

 構想は壮大だった。開発対象は、現在のJR網干駅周辺から沿岸部に至るまで約400ヘクタールに及んだ。うち半分に相当する沿岸部の敷地に重工業関係の工場群を置き、東京電気が余部の約140ヘクタールに通信機関係の工場を建設。従業員数も5万人から最終的には8万人にまで増やす計画だったという。

 造成は終戦の日も続いていた。敷地は構想全体の半分まで整備が進み、沿岸部の網干工場、余部の工場ともに操業を始めていたが、開発は未完に終わった。

■会社分割「西の東芝」誕生

 東京芝浦電気網干工場は1942(昭和17)年秋、建設途上ながら操業を始めた。海軍の管理工場となり、特殊潜航艇用の電動機などを生産した。

 戦災は免れたが、戦後、窮地に。連合国軍総司令部(GHQ)のもと、財閥解体や経済民主化の一環で成立した過度経済力集中排除法の指定を受け、本社から分割されることになった。

 「余命幾ばくもない。せめて葬式費用くらい残るよう大目に見てくれ」。財産分与を巡り、工場側は本社に必死で掛け合った。戦後の混乱期、一工場単独で生き残れるめどはなかった。50年、工場は「西の東芝」西芝電機として再スタート。従業員数は400人に満たなかった。それでも給与を工面するため、敷地内の水道管を掘り起こして売却したこともあった。

     ◇

 「私の入社時、元海軍技術士官だったという大ベテランもいた」。81年入社、開発畑一筋で歩んだ伊藤整(ただし)さん(63)は、若手も開発に挑戦できる社風に引かれたという。先輩社員からは、西芝電機株式会社をもじった商標「NSDK」が「『何でもすぐやる電機の会社』の意味でもある」と教えられた。

 実感したのは、まだ入社10年目のころ。伊藤さんを含め、若手中心の7人が集められた。発電機を船のメインエンジンにつなげ、発電した電気を使うには周波数を調整する必要があり、アナログで行うのは大変だった。そこで、伊藤さんたちは「簡単にデジタル制御できるシステムの開発」という難題を任された。

 2年間、開発に打ち込んだ。毎晩、家まで暗い道を歩きながら、中島みゆきの「時代」を口ずさんだ。「♪あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ」。出口の見えない開発に自らを奮い立たせた。完成すると、会社を代表する主力製品となった。

 伊藤さんは開発担当責任者を務め上げた今も、後進の育成のため、開発部に籍を置く。職場では東芝の伝統である「さん」付け。若手とともに次世代技術の開発に思いをはせる。

 目指すのは、発電効率を上げ、二酸化炭素(CO2)排出を抑制する船の推進装置。グローバル化で大量の荷物を世界中に運ぶため、エネルギー効率の高い船の重要性はますます高まる。伊藤さんは力を込める。

 「造船所が集積する瀬戸内の地の利を生かし、西芝がクリーンでエコな船の推進システムを実現したら、日本の造船業もまだまだ発展できる」。80年前の先見の明が今に生きる。

■専用鉄道、市南部に残る線路跡

 姫路市の網干・余部地区に残る線路跡は、北沢産業網干鉄道という。JR網干駅と沿岸部の姫路市網干区浜田をつなぐ貨物線(約6キロ)だった。

 郷土資料などによると、前身は、東京芝浦電気が播磨進出にあたって計画した専用鉄道。大部分は1947年2月までに完成し、同社網干工場(後の西芝電機)と、東京電気播磨余部工場(後の東芝姫路工場)を経由した。北沢産業に譲渡された後も、両工場の輸送を担ったという。

 89年に全線廃止となり、線路跡への立ち入りはできない。ただ、JR網干駅南側の駐車場内には、機関車が展示されており、線路跡とともに往時の面影をとどめている。

【東芝】「からくり儀右衛門」と呼ばれた田中久重と、「日本のエジソン」と称された藤岡市助がそれぞれ創業した会社の合併により、1939年に東京芝浦電気が誕生。84年、東芝に改称した。「財界総理」とも呼ばれる経団連会長を2人輩出したほか、テレビアニメ「サザエさん」の番組スポンサーも長年務めた。24日には臨時株主総会を開催。姫路半導体工場を含むデバイス事業を切り離して上場させる会社分割案を諮る。

【連載一覧】
(中)住民が従業員「地域の誇り」
(下)太子で培った半導体技術

姫路
姫路の最新
もっと見る
 

天気(10月23日)

  • 22℃
  • ---℃
  • 0%

  • 20℃
  • ---℃
  • 10%

  • 23℃
  • ---℃
  • 0%

  • 23℃
  • ---℃
  • 0%

お知らせ