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守れ、空のインフラ 被災の空港は今(1)3・11そのとき

2021.03.11
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滑走路や駐機場をのみ込む津波=2011年3月11日、仙台空港(仙台国際空港会社提供)

滑走路や駐機場をのみ込む津波=2011年3月11日、仙台空港(仙台国際空港会社提供)

関西空港島から避難できなくなり、ターミナルビルで一夜を明かす旅客ら=2018年9月4日、関西空港(関西エアポート提供)

関西空港島から避難できなくなり、ターミナルビルで一夜を明かす旅客ら=2018年9月4日、関西空港(関西エアポート提供)

東日本大震災当日を振り返る仙台国際空港会社の小笠原光徳さん=宮城県名取市

東日本大震災当日を振り返る仙台国際空港会社の小笠原光徳さん=宮城県名取市

■滑走路水没旅客避難急ぐ

 2月13日の深夜。福島、宮城両県を最大震度6強の地震が襲った。

 仙台空港の運営会社に勤める小笠原光徳さん(41)は、宮城県岩沼市の自宅ベッドで縦横に激しく揺さぶられた。頭上の電気スタンドを必死で押さえる。テレビで津波が来ないことを確認し、暗闇の中、職場へ向かった。幸い被害はなかったが、「10年前を思い出さずにはいられなかった」。

     ◇

 2011年3月11日。あの日の揺れは、今なお骨身に染みついて離れない。空港ターミナルビル2階の免税店にいた小笠原さんの携帯電話に、緊急地震速報が鳴った。地鳴りがひどい。店外に出ようとしたが、足をすくわれ転倒した。酒瓶が次々と崩れ落ちた。国際線ロビーの鉄製の手すりが大きく蛇行していた。

 外に出て従業員の無事を確認していたときだ。「津波が来るぞ」と騒ぐ声が聞こえた。「そんなことあるのかな」。余震におびえつつビル3階に避難した。

 空港周辺は海との間に松林が生い茂り、民家が立ち並んでいた。午後4時ごろ。目の前の「景色そのもの」が迫ってきた。それが津波なのか分からないまま、家や車が流されるごう音が響き渡った。波高は3・02メートルだったという。

 1階が水没したビルには旅客や周辺住民ら1700人が避難した。災害本部を立ち上げ、食べられる土産品を配って回った。「とにかく落ち着こう」と言い聞かせつつ、「これ、本当に現実なのか」とも思った。

     ◇

 18年9月4日。関西空港を台風21号が襲った。「最悪のルートを通りそうだな」。関空の運営会社、関西エアポートで危機管理を担う石川浩司執行役員(61)は思った。過去にも風雨で交通アクセスが遮断され、波が護岸を越えて滑走路に入る事態はあった。東日本以降は津波対策も行ってきた。だが「あんな高潮は想定外だった」。

 台風は四国から淡路島を抜けて午後2時ごろ、神戸に再上陸した。強風が吹き荒れ、波が護岸を越えた。程なく、護岸を写すカメラの映像が途絶えた。そのうち、施設にも水が入ってきた。第1ターミナルビル地下の電源設備が浸水し、ビルは大部分が停電。防災設備も壊れ、放送が流せなくなった。

 旅客らをビル上階に避難させ、配布する食料や毛布を準備。一方、島外避難のためバスを手配した。「外とのアクセスが取れれば大丈夫」。そう考えていたとき、対岸を結ぶ連絡橋にタンカーがぶつかっているのをテレビで見た。

 計算が狂った。「当初は『11人乗りの船がぶつかった』とだけ聞いていた」

 連絡橋の衝突部からガスが漏れ出し、被害状況がつかめない。バスに加え、翌朝からの船での島外避難も急ぎ要請した。4日中の避難は不可能だと分かった。

 滑走路は最大で1メートル程度浸水。空港島の浸水量は、東京ドーム2・2個分相当の270万立方メートルに達したとみられ、空港は閉鎖された。

 暗闇に包まれたビル。足止めされた旅客ら約8千人は、通路のそこかしこに荷物を置き、毛布にくるまって夜を明かした。関空は孤立した。

     ◆

 近年、相次ぐ自然災害は空港にも壊滅的な打撃を与えてきた。南海トラフ巨大地震や感染症を含めた有事対策は、神戸空港も無縁ではない。東日本大震災から10年。仙台、関西両空港の教訓を踏まえ、空のインフラ機能をどう守るのかを考えたい。(横田良平)