ひょうご経済プラスTOP 経済 開業50年の山陽新幹線「世界に誇れる進化を遂げた」 夢の超特急に込めた技術と思い

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開業50年の山陽新幹線「世界に誇れる進化を遂げた」 夢の超特急に込めた技術と思い

2022.03.16
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川崎重工業兵庫工場で製造される東海道・山陽新幹線0系=1972年、神戸市兵庫区(同社提供)

川崎重工業兵庫工場で製造される東海道・山陽新幹線0系=1972年、神戸市兵庫区(同社提供)

川崎重工業で新幹線車両の塗装を担当し、自ら撮影した新幹線300系の写真を持つ三浦喜太郎さん=加古川市平岡町土山

川崎重工業で新幹線車両の塗装を担当し、自ら撮影した新幹線300系の写真を持つ三浦喜太郎さん=加古川市平岡町土山

ゆかりの品を手に、新幹線運転士当時の指さし確認をする元国鉄マンの山本光明さん=明石市別所町

ゆかりの品を手に、新幹線運転士当時の指さし確認をする元国鉄マンの山本光明さん=明石市別所町

 15日に開業50年を迎えた山陽新幹線。その黎明期から車両の塗装工や運転士として、新幹線に携わった兵庫県内の2人は、トンネルの多さから高い技術が求められる区間での安全運行に力を注いだ自身の姿を思い浮かべる。「一人一人の技術が重なり、新幹線が世界に誇れる進化を遂げることができた」

 「そんなにたつのか…」。1965(昭和40)年から半世紀近くにわたり、川崎重工業兵庫工場(現川崎車両)で鉄道車両の塗装に携わった兵庫県加古川市の三浦喜太郎さん(75)は、年月をしみじみと振り返る。

 手掛けた車両は約2千。その半分を占める新幹線の中でも最初に塗装した0系は今も強く印象に残る。団子っ鼻の先頭車両の迫力に圧倒された。手作りのため、微妙な凹凸が出やすい鉄製車体。手にしたヘラなどで、樹脂を塗るパテ付けや研磨、上塗りで表面を滑らかに仕上げてきた。

 トンネルの風圧や振動に耐えられるよう、塗装は薄く、素材に密着させることに心を砕いた。今とは違い、多くが手作業の時代。「苦労が大きかった分、思い出深い」と懐かしむ。

 新大阪-岡山間を走り始めた開業時には、命を吹き込んだ0系が疾走する姿に「素晴らしい」と感動した。その後も初代「のぞみ」の300系、車体が丸く塗装が難しい500系、「カモノハシ」の愛称で親しまれた700系にも携わり、匠の技を発揮。カメラを携え、加古川河川敷に足を運び、シャッターを切った。

 この50年、新幹線は速度や形の進化を続けてきた。「新しい車両を見ると、後輩たちの頑張りや技術の継承を感じる。僕らも貢献できたのかな」

 一方、国鉄マンとして70(昭和45)年、24歳で新幹線運転士となった兵庫県明石市の山本光明さん(76)。開業前の試運転から山陽新幹線でハンドルを握った。東海道新幹線での運転経験はあったが「トンネルが多く、地形が覚えられず苦労した」と振り返る。

 川に架かる橋や沿線の建物などを頼りに、軌道の種類で異なる走行音も聞き分けた。駅の数キロ手前から時間を計り、定時運行を心掛けた。「姫路の市川など河川の名をいつの間にか覚えた」と笑う。

 忘れられない出来事がある。開業直前の試運転中、姫路-西明石間で緊急停止の指令が入り、即座に急ブレーキを掛けた。レールを滑った車輪がへこんで走れなくなったが、直前に同様の指令を受けた運転士が止まらず事故になりかけていたため、迷うことはなかったという。

 山陽新幹線は開業以来、乗客・乗員の死亡事故を起こしていないのが誇りだ。「運転士は絶対に間違いを起こしてはいけない。他人の失敗を生かし、忠実に仕事をする」。西日本の大動脈を支える後輩たちにエールを送る。(大島光貴)