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ダイエー中内功氏「消費のトレンドを読み違えた」 安売り一辺倒、専門店育てず 生誕100年

2022.08.03
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ダイエー創業者の中内功さん=1995年2月

ダイエー創業者の中内功さん=1995年2月

閉店し、買い物客らにあいさつする「ダイエーグルメシティ新長田店」の従業員ら=2021年12月31日午後、神戸市長田区久保町5(撮影・秋山亮太)

閉店し、買い物客らにあいさつする「ダイエーグルメシティ新長田店」の従業員ら=2021年12月31日午後、神戸市長田区久保町5(撮影・秋山亮太)

中内功氏との親交を懐かしむ田村正紀・神戸大学名誉教授=宝塚市栄町2(撮影・三津山朋彦)

中内功氏との親交を懐かしむ田村正紀・神戸大学名誉教授=宝塚市栄町2(撮影・三津山朋彦)

神戸新聞NEXT

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 2021年の大みそか。「ダイエーグルメシティ新長田店」(神戸市長田区)が午後5時、地元客に見守られて、前身のダイエー時代から60年の歴史に幕を閉じた。1995年の阪神・淡路大震災で倒壊し、周りの商店と共同仮設店舗を設けて営業を再開した。復興のシンボルでもあった。

 「店を開けろ」-。震災当時、創業者中内功(いさお)氏の号令一下、ダイエーは被災地に明かりをともし続けた。だが、自社も約500億円に上る甚大な被害を受けた。日本最大の規模を誇った総合スーパーは、バブル崩壊後の苦境に震災が追い打ちをかけ、経営不振に陥る。

 2015年にはライバルであるイオンの傘下に入った。かつて「ダイエー村」と称された神戸・三宮の店舗群も再建されることなく、その記憶も街から失われつつある。

 戦後の闇市から身を起こし、プロ野球球団やホテル、コンビニなどを傘下に持つ巨大流通グループを一代で築いた中内氏。失速後は表舞台から去り、05年に亡くなる。苛烈な太平洋戦争から帰還し、豊かな消費社会を渇望した「流通革命」の旗手は、何を成し、何を誤ったのだろうか。

          ◇

 今年は中内氏の生誕100年にあたる。コロナ禍、相次ぐ自然災害、押し寄せるデジタル化の波など時代が激動する今、希代の経営者に改めて光を当てる。初回は、マーケティング論の経営学者であり、30年余り親交のあった田村正紀(まさのり)神戸大名誉教授(82)が、退任後に直接聞いた「失敗の理由」を語った。

■低価格戦略

 ダイエーは神戸・三宮から、食品、衣類、日用品がそろう総合スーパーをチェーン展開した。1972年に老舗百貨店、三越の売上高を抜き「小売業日本一」に。しかし、その勢いは90年代に衰え、21世紀に入ると創業者である中内功(いさお)氏自身が退任を余儀なくされた。

 退任後は88年に開学した流通科学大(神戸市西区)の学園長として後進の育成に当たっていた。神戸大を退官後、教授として招かれていた田村正紀(まさのり)神戸大名誉教授は、2000年代初頭のある日、学生食堂で昼食のカレーライスを食べながら、思い切って尋ねた。

 「なんで失敗したと思いますか」。単刀直入に聞いたんです。すると、真っ先に「消費のトレンドを読み間違えた」と極めてフランクに、淡々と言われました。1960年代の低価格路線、つまり彼の「安売り哲学」が、90年代には変わっていたということですよね。

 読み違えたというのは、80年代の後半から始めた大規模な安売り店、ハイパーマートに関連していると思います。そのころからユニクロやニトリ、ヤマダ電機とか専門店が伸びてくるでしょ。

 米国の著名な経営学者マイケル・ポーターの戦略論では、企業の基本的な戦略は三つある。一つはプライス・ディスカウント、つまり低価格。もう一つは差別化。そして、ターゲットという狭い領域に集中する戦略です。80年代後半から90年代に成功した専門店は、ポーターの言う集中戦略で成功している。これを僕は「バリュー戦略」と言っています。ある価格帯で最高の品質のものを狙う。

 ニトリもそうですよね。例えばヒット商品のベビーベッド。昔は3代ぐらい持つように頑丈やった。だけど最近は子どもは1人か2人やから、ニトリは耐久性は劣るけど、折りたたみ式のファッション性が高いものを輸入材で安く作った。

 ダイエーも郊外型ショッピングセンターを建て、その中にスポーツ用品や呉服、婦人服などのいろんな専門店をつくりました。専門店の芽は実は真っ先に見つけていた。スタートアップの舞台はせっかく用意したのに、専門店を直営にして育てなかったんですね。だけど、中内さんの時代には店舗戦略として、ぜいたく志向か低価格志向か、この2方向しかなかったんだと思います。低価格戦略しか取れなかったんでしょう。

■組織が官僚化

 もう一つは「組織があまりにも官僚化していた」とおっしゃった。僕は「へえっ」と、ちょっと驚いた。

 中内さんは阪神・淡路大震災で神戸に帰ってきたときに感じたようです。自分の頭で考えて行動する社員が少なくなっていた、と。官僚化とはマニュアル化ということですからね。

 だけど、中内さんはかつて「1万人の企業は賢いやつが10人いたらオペレーションできる」と話されていた。その代わりマニュアル化を徹底してやる。それだけシステムオペレーション(運営)をがっちりつくったら動かせると。ああ、これが中内さんの思想かと思いました。ところが、肝心のオペレーションにガタがきだしてたんでしょうね。

 3番目は「阪神・淡路大震災がダメ押しやった」と。具体的なこと? それは言わなかったけど、分かりますよ。ダイエーの高収益店はほとんどが阪神間に集中していた。全国展開の礎を築いた神戸では、うまく商圏を設定して店を配置してたからね。そのドル箱店舗が軒並み被害を受けた。

 中内さんがいくら天才的な経営者でも震災は痛撃だったでしょうね。おまけにキャッシュアウト(資金の引き出し)が増えてるときだった。だけど、中内さんは日本で最も起業家精神にあふれた経営者やったと思いますね。(聞き手=村上早百合)

田村 正紀氏(たむら・まさのり)1940年大阪市生まれ。大阪市立大商学部卒、神戸大大学院経営学研究科博士課程を退学。商学博士。神戸大で助教授、教授を務め、92年から2年間、経営学部長。2000年に名誉教授。同年4月から05年8月まで流通科学大教授。旧通産省、公正取引委員会などの委員も歴任。「日本型流通システム」など著書多数。

中内 功氏(なかうち・いさお)1922年、大阪市生まれ。41年に神戸高等商業学校(現兵庫県立大学)を卒業後、日本綿花(現双日)に入社。太平洋戦争に従軍し45年にフィリピン・マニラから復員し、実家のサカエ薬局(神戸市兵庫区)で従事。闇市商売や現金卸売問屋を経て、57年にダイエーを創業。安売りで急成長し、72年に小売業で売上高日本一を達成。80年代にはプロ野球球団や百貨店、ホテルなどを抱える巨大グループを築いた。82年にダイエー会長兼社長。初代日本チェーンストア協会会長や神戸商工会議所副会頭を務め、90年に流通業界出身で初めて経団連副会長に就任した。

 しかし、バブル経済崩壊に加え、95年の阪神・淡路大震災の被害で、業績が悪化。2000年10月に会長を辞任し、翌年1月に創業者の意の「ファウンダー」に就任するが、02年に全役職を退く。05年9月に死去するまで、生涯を「流通革命」にささげた。ダイエーは04年12月に産業再生機構の支援を受け、15年1月にイオン傘下に入った。