鴨川さんのお話

「6軒棟続き長屋の2階でした。床が波打って立ち上がれず、離れていたところに置いていた主人の遺影が飛んできて、私のすぐ横の壁にぶつかりました。私に呼び掛けたのではないけれど、外から『大丈夫か!』という声が聞こえたので、大声で返事をしたら少し落ち着いたので、偶然開いていた窓から外に出ました。1階がつぶれて地面まで2メートルぐらいでした」

-そこから避難所に?
「伊丹から駆け付けた男性がその場にいて、私の長女も伊丹にいることを話すと『一緒に行きましょう』と車に乗せてくれました。お昼ごはんも用意してくれて…。あの時いただいた豆腐のみそ汁は忘れられません」

―伊丹では落ち着けたんですか
「長女に会えて孫たちもいるのに落ち着けませんでした。着の身着のままパジャマ姿で避難したのですが、そのパジャマがなぜか脱げず、外出の時はその上に服を着ました。地震の時に身に着けていたものだから、体の一部のように思えたのかもしれません。洗濯機が『ガタッ』と音をたてただけでもびくっとしていました」

―体が揺れを覚えていたんですね
「地震から3カ月ぐらいたったころ、仕事に行く途中、JR大阪駅で泣いている女の人がいました。どうしても気になって話しかけると、『震災の時、主人が神戸にいて…』で後は言葉になりません。私も主人を早くに亡くしており、その人の心細さは分かる気がして、『大丈夫よ』と何度も肩をさすりました。今思うと、その人を励ましながら、自分自身にも『大丈夫』と言い聞かせていたと思います」

―神戸に戻りたかったのですか。戻ってどうでしたか。
「親の介護もあって大阪に住んでいました。HAT神戸に引っ越したのは2000年。こんな高層の団地に住むのは初めて。慣れないものだから、少しでも気持ちが晴れればと、壁は少しでも明るいものを選ぶようにしました。当たり前だけど、街路樹も植えたばかりだからやせていてひょろひょろ。『新しくてきれいだけど、さびしい場所やなあ』とため息ばかりついていました。震災前に住んでいた東灘の長屋が懐かしかった」

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塩月さんのお話

「家は阪急春日野道駅近くの文化住宅。2階に住んでたけど、1階になってもうた。家の外に飛び出たら、『おじちゃん、助けて』と聞こえた。同じように1階がつぶれた家の2階から小学生ぐらいの女の子がおってな、その子を道に下ろして、もう1人おんなじように助けたかな。ガスの臭いがするのに、タバコ吸っている人もおって、引火するんちゃうかびくびくした。近所に住む家族の無事を確認してからは、春日野小学校に避難した。今思うと笑い話やけど、『高いもんやから』と羽毛布団まで持ってった」

―避難所では
「水が出ないからトイレがすぐだめになった。仕事でダンプカー持ってたから、六甲山抜けて三木あたりまで行って水を汲んで、避難所に運んだ。ポンプで給食用の大鍋に水を移してまた汲みに行く。それを1週間ぐらい。『肺炎になりかけている』と医者からとめられるまで続けたよ」

―その後仮設住宅へ
「西区。サッカーのヴィッセル神戸のグラウンドの近く。仮設の名前?忘れたなあ。柄でもないのに自治会の副会長任されてな。コープこうべからボランティアの人がしょっちゅう来て、ようしてもらった。今も年賀状のやり取りは続いてるよ」

―仮設住宅は苦労が多かったですか
「夏は蒸し風呂だけど、大変なのは皆同じ。車持ってる人間が限られとったから、皆からあてにされてな。買い物にしてもどこ行くにしても、連れ立って一緒。気の合う仲間が5人ぐらいおってな。『一緒にここを出ようや』と励まし合った。いい思い出や。でも、いざ仮設住宅を出るとなると、行先はみんな違った。『一緒に行きたい』『さびしくなる』と泣いた女の人もおった。今どうしているかな、たしか長田の復興住宅に入ったらしいけど、元気やろか」

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復興住宅の暮らしについて

―復興住宅の暮らしはどうですか
鴨川さん「こちらでも、同じ階で近所付き合いが始まって、少しずつ顔見知りが増えました。おすそ分けを持っていくこともあります。ボランティアの学生さんとおしゃべりして、大好きな童謡を歌うと元気になります。若い人に助けてもらっています」
塩月さん「住んでいる棟の集会所は、カラオケやマージャンの教室もあってにぎやか。子供向けの英語教室もあるしな。でも自治会の活動となると手伝ってくれる人が足りない。よその棟では自治会すらないところもあるんや」

―来年で震災20年です
鴨川さん「地震への怖さはずっとついて回ると思います。それは仕方がないこと。苦労が来たら、その後はいいことがやってくる。苦しいときは、楽しかった思い出が助けてくれる。これまでを振り返ると本当にそうでした」
塩月さん「早いなあ。まだままだ元気なつもりでも、もう80歳やからいつなんどき動けなくなるかわからん。階段の電球を換えるのも一苦労で、LSA(生活援助員)の人にやってもらっている。自治会のまとめ役ももっと若い人に任せたいのだけど、なかなかなり手が見つからない」

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仮設住宅での暮らしについて

阪神・淡路大震災以前、仮設住宅には集会所は想定されていませんでしたが、入居期間の長期化を踏まえ、50戸以上の仮設住宅には「ふれあいセンター」と呼ばれる集会所が置かれました。

茶話会や趣味の講座など親睦行事や地域住民との交流会が開かれ、コミュニティー形成につながりました。また、住民自治会やボランティア活動の拠点として活用されました。

こうしたふれあいセンターは被災地全体では200カ所以上設けられました。



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今吉さんのお話

―今吉さんにとっての阪神・淡路大震災は
「長田区に住んでいたおじいちゃんおばあちゃんの家がつぶれて、西区の仮設住宅に入りました。小学校に上がる前、仮設に遊びに行ったことがあります。隣の女性がおかずを持ってきてくれて…覚えているのはそれぐらい。東日本大震災の時、母が『神戸も大変やったんやで』と教えてくれたけど、家族の中でも震災の話をすることはあまりなかったです」

―二人の印象は
「家が全壊して、鴨川さんは大阪とかに引っ越して、塩月さんは仮設住宅に何年も暮らして、いろんな苦労があったはず。でも、世間話をするような口調で話してくれた。ユーモアを交えて話す鴨川さんには『なんでそんなに明るく話せるの?』」

―わざとつらい話は避けた?
「知らない女性を勇気づける話をした時、鴨川さんの目が潤んでいるようでした。話さなかっただけで、いろいろなことがあったのだろうなあと」

―印象深い話は
「『着ていたパジャマをしばらく手放せなかった』という鴨川さんのせりふにすごく共感できた。あの揺れを私は体験していないけど、そこまで人の心に影響するんだと。仮設住宅から復興住宅に引っ越したのに、塩月さんが『仮設住宅の方が人情味があった』と懐かしそうに話したのも驚きだった」

―二人の気持ちを想像するとしたら。
「被災した人への支援や見知らぬ人から親切にされたことを話してくれた。地震は悲しい出来事だったけど、そればかりじゃない。混乱の中でも、ほっとするようなことがあったんだと。苦労したことよりもそっちの方が言いたかったのかな」

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