経済
守れ、空のインフラ 被災の空港は今(2)運航再開
■新幹線よりも早く復旧を
「夢じゃなかった」
2011年3月12日朝。仙台空港の小笠原光徳さん(41)は、ターミナルビルで絶望感にさいなまれた。
景色ごとのみ込んだ前日の津波が現実のものとは思えず、ビルでの避難者対応も夢うつつの状態だった。事務所横の休憩室で夜を明かし、「起きたら夢だった」と言いたかった。だが1階は泥にまみれ、滑走路には車やがれきが散乱したままだった。
国の管理運営だった空港は13日以降、米軍の支援を受けてがれき撤去や復旧作業が進められた。16日には滑走路が部分復旧し、機材や車両の搬入を開始。避難者は別の場所に移り、空港は食料や水、毛布を各被災地に輸送する「トモダチ作戦」の拠点になった。
小笠原さんは、担当する免税店の片付けや経理作業に追われた。業務は自家発電が使える午後4時まで。ハード面の撤去は米軍などが助けてくれる。自分のできることをやろうと思った。「それが復興につながると信じた」と振り返る。早期の機能回復へ、空港職員の目標は「(運休中の東北)新幹線より早く復旧しよう」だったという。
4月13日、仙台と羽田、大阪(伊丹)間で被災後初の臨時便が飛んだ。程なく売店も営業を再開し、小笠原さんらは涙する到着客を出迎えた。周囲は何もなくなってしまった。それでも、人や物を乗せ、運ぶ空港の役割を取り戻すことができた。
◇
18年9月5日。高潮被害を受けた関西空港に、バスを待つ長蛇の列ができた。関空と神戸空港を結ぶ高速船「ベイ・シャトル」の海上輸送も始まり、旅客らは空港島の外に避難した。
「まず避難が第一、その後に空港機能の復旧、と考えた」と関西エアポートの石川浩司執行役員(61)。排水設備も損傷したため、機能回復には1週間程度かかるとの見方もあった。周囲から「避難と復旧を同時にやるべきだ、との意見を多く受けた」と明かす。
国際拠点空港の被災は、観光やビジネスなどの経済活動に打撃を与えた。関西エアの当時の事業継続計画(BCP)は地震と津波を想定し、高潮には即していなかった。その中から浸水に関する部分を引用して対応した。加えて、早期復旧時の運航再開目標がなく、避難と復旧の同時進行が難しかった。
さらに難題だったのが情報共有だ。多くの機関が関わるだけに「同じ情報を同時に共有する難しさがあった」という。真偽が入り乱れ、確度の差が意見の食い違いを招いた。
国などの支援も受け、復旧は急ピッチで進んだ。浸水した第1ターミナルビルとA滑走路に代わり、被害を免れた第2ターミナルビルとB滑走路での一部運航再開が3日後。全面再開は17日後だった。いずれも当初予測よりは早かったが、石川さんは「それでも、少し時間がかかったのかもしれない」と振り返る。
全面復旧までの間、伊丹と神戸に計22の代替便が到着した。空のハブ機能を担う役割の大きさが浮き彫りになった。(横田良平)
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