【てくてく神戸】旧居留地編(11)災害多発の旧生田川 土砂流れ込み外国人苦情

2022/09/15 05:30

かつて生田川が流れていたフラワーロード

 現在、旧居留地の東には市役所や東遊園地があり、さらに東に街を南北に貫くフラワーロードが通る。 関連ニュース 「東洋一の美しさ」神戸居留地 今も残る区画の名残 市役所カフェはなぜ「127番地」? 生田川沿いを歩いていると、あまりに多い「新生田川」…どっちやねん? 【写真】現在の生田川。新生田川は通称だ

 実はこのフラワーロードにはかつて生田川が流れ、外国人と日本人との接触を避けるための壁のような役割を果たしていた。
 しかし1871(明治4)年、生田川は今の場所に付け替えられた。壁は取り払われることになったが、大丈夫だったのだろうか。
 「直接のきっかけになったのは、1868年の暴風雨です。造成間もない居留地に土砂が流れ込み、外国人から苦情や要請があったようです」
 居留地の歴史に詳しい神戸大学名誉教授の神木哲男さんが説明してくれた。
 当時の区画番号を見てみた。全126区画中、最後の方に落札された土地はほとんどが東側。恐らく土砂の影響があったのだろう。
 神戸の居留地は開港や造成が遅れただけでなく、「暴れ川」とも呼ばれた生田川から土砂災害を受けるなど不運が続いたようだ。
 生田川跡地の工事を請け負ったのは紀州出身の商人加納宗七。そのため今も加納町という名が残り、東遊園地に銅像があるのは有名だが、もう一つ、神木さんから興味深い話を聞いた。
 「今は道路の西側だけが加納町でしょう。かつては東側も含む道路の周辺全てが加納町だったんですよ」
 現在の地図を見ると、新神戸駅から東遊園地付近までの主にフラワーロード西沿いに加納町1~6丁目がある。反対の東側には、布引町、磯辺通などのさまざまな町名や通り名が並ぶ。
 神木さんによると、東側がそれらの名称に変わったのは1899(明治32)年のこと。広い道を挟んで一つの町が存在するのは日本式でない、という当時の判断から、西側だけに加納町の名が残ったと推察する。
 ちなみに、川を埋め立てた道は布引の滝に通じるため「滝道」と呼ばれた。阪神電鉄や神戸市電の駅もあった。「昔は高い建物もなく、六甲山もはげ山だったらしいから、港から滝が見えたんじゃないかなあ」。神木さんは感慨深げに山を眺めた。(安福直剛)

【バックナンバー】
(10)十五番館 開港当時の「証人」
(9)行政区名 紛らわしさに共通点
(8)西洋文化の窓口 港町イメージ、観光に寄与
(7)横浜と神戸 互いを参考に近代化
(6)南京町市場 朝ドラ機に観光地に
(5)南京町コミュニティーの形成 貿易、中国人が仲介役
(4)「雑居地」の設定 「日本初」次々と発祥
(3)海軍操練所跡の碑 開港後は英国領事館に
(2)店のネーミング 「○番」-区画の名残
(1)150年変わらぬ町割り 道の名が日本の縮図

神戸新聞NEXTへ
神戸新聞NEXTへ