震災直後の学校

家屋の倒壊や火災が相次いだ阪神・淡路大震災。生活の場を失った住民は、不安を抱えながら着の身着のままで避難場所へと向かった。学校は多くの住民を受け入れ、生活支援の拠点として大きな役割を果たした。(撮影・後藤亮平)

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避難

神戸市長田区の御蔵小学校は、近くの菅原市場などで火災が多発し、住民が避難した。その数は最大約1700人に上り、校庭で過ごす被災者もいた。耐震化されたが校舎の外観はほぼ当時のまま、児童の歓声が響く=神戸市長田区一番町4

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救援物資

神戸市東灘区の東灘小学校では、全国から届いた食料などの救援物資が校庭に積まれ、被災者らに配られた=神戸市東灘区深江北町2

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自衛隊

神戸市東灘区の本庄小、中学校の前に、自衛隊のテントが集結。被災者への給水や浴場設置などを行った。現在、敷地の一部は高層住宅に。両校は震災から約2年後に防災機能を備えた校舎に建て替わった=神戸市東灘区青木4

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今も地域のよりどころ

 校庭にテントが並び、被災者がたき火を囲んだ。
 1995年1月17日。その日から、学校は避難所となり、遺体安置所にもなった。子どもの声が消え、教室や廊下に人がひしめいた。
 避難所は、昼と夜の空気が違った。
 昼間は人が減る。壊れた自宅の後片付けや役所の手続き。出掛ける先はさまざまだ。もちろん、仕事に行く人もいる。2週間、3週間とたつにつれ、がらんとした教室で所在なく過ごす高齢者の姿が目立つようになった。
 夜になると、人々が戻ってくる。住まいを失った避難者にとって、そこはつかの間の「家」だった。しかし、ゆっくり眠ることはできない。夜間も人の出入りが続く。酒を飲んで大声を出す人がいる。眠れないのか、深夜、静かになった校庭でたばこを吹かす人たちの姿も見かけた。
 19年前、地域の人々を支えた学校。役割の大きさは今も変わらない。震災後、物資の備蓄拠点としても整備が進む。何より、その存在は住民の心のよりどころになる。
(磯辺康子)

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