ひょうご経済プラスTOP 連載一覧 明日を拓く 震災と停滞の先に 第6部 神戸酒心館 安福幸雄会長・武之助社長 (1)親子のバトン 伝統の酒蔵文化発信

第6部 神戸酒心館 安福幸雄会長・武之助社長

(1)親子のバトン 伝統の酒蔵文化発信
復興の種「ようやく花に」

2015.04.28
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神戸酒心館の安福幸雄会長(右)と武之助社長。阪神・淡路大震災後に植えた桜の幼木20本が見事に育った=神戸市東灘区御影塚町1、神戸酒心館(撮影・後藤亮平)

神戸酒心館の安福幸雄会長(右)と武之助社長。阪神・淡路大震災後に植えた桜の幼木20本が見事に育った=神戸市東灘区御影塚町1、神戸酒心館(撮影・後藤亮平)

 阪神・淡路大震災とその後のデフレ不況を乗り越えてきた経営トップへのインタビュー連載企画「明日を拓(ひら)く」。シリーズ第6部は、ノーベル賞授賞式後の晩さん会で出され一躍注目を浴びた青いボトルの純米吟醸酒「福寿」の醸造元、神戸酒心館(しゅしんかん)(神戸市東灘区)の会長安福幸雄(ゆきお)さん(73)と、長男で社長の安福武之助(たけのすけ)さん(41)に聞いた。震災後、レストランやホールを備えた酒蔵を再建するなど、270年続く伝統の灯を絶やすまいと親子でまいた復興の種が「ようやく、少しずつ、芽を出し花を咲かせ始めた」と声をそろえる。(中務庸子)

 -「福寿」の純米吟醸酒が好調だ。

 武之助社長 2012年、人工多能性幹細胞(iPS細胞)研究で山中伸弥京大教授がノーベル生理学・医学賞を受賞した際、晩さん会への注文が入り、新聞やテレビで取り上げられて人気に火が付いた。昨秋は青色発光ダイオード(LED)で日本人研究者が受賞したこともあって、青いボトルのこの商品が再び注目された。以前は年10キロリットルほどだったが、10倍以上に伸び販売数量を絞っている状況だ。東京や東北地方から、はるばる神戸まで買いに来てくれる人もいる。いい起爆剤になった。相乗効果で蔵全体の醸造量も360キロリットルとなり、5年前の倍以上に増えた。

 -20年前は考えられなかった。

 幸雄会長 阪神・淡路大震災で五つあった木造蔵がすべて全壊した。あまりにもあっけなく、ぼうぜんと立ち尽くすしかなかった。水も電気も止まって、2カ月間なすすべがなく、その間に他社に攻勢をかけられ、全国で得意先を失った。

 その後の日本酒低迷も、やせ馬にむちだった。不況で宴席が減り、焼酎やワインブームに客を取られた。デフレで価格競争になれば、体力のある大手とはとても勝負できない。売り上げは何とか維持したが、販売促進費を出し続け赤字は倍々の勢いで膨らんだ。

 -震災のダメージにどう向き合ったか。

 会長 従業員が一人も亡くならなかった。これが支えになった。震災前から酒蔵を地域の文化発信基地にしようとの構想を温めていて、実現しようと気持ちが切り替えられた。レストランや物販、イベントホールが一体となった「神戸酒心館」がオープンしたのは1997年12月のことだ。

 酒造りの資料館ではなく、日本酒を通して食や芸能など、あらゆる文化が融合する施設は全国でも先駆け的な存在だった。醸造量は大手と100倍以上の差があるが、施設の年間入場者数では、大手の資料館に匹敵する約13万~14万人が訪れている。

 -2011年、経営のバトンを息子に渡す。2代にわたり途絶えていた「武之助」も襲名した。

 会長 酒造りは1751年に三田の薪炭(しんたん)商だった安福又四郎重国が始めたのがルーツ。明治時代、7代目に嫡男ができず、大阪・池田の造り酒屋から婿養子に迎えた岸上武之助が当主となった。

 ところが、その後、7代目に男の子が生まれ、その子が又四郎の名を継ぐことになり、安福又四郎商店を新たに起こした。「大黒正宗」の蔵元だ。

 一方で、8代目から「武之助」がうちの名前になったわけだが、私も私の兄も代替わりが60歳を過ぎてからで、襲名のタイミングがなかった。

 社長 歴史はお金で買えない。背景に伝統や文化があるからこそ、新たな挑戦ができると思っている。2003年の入社以降、商品構成を見直し大吟醸や純米吟醸など高級酒の比率を上げ、杜氏(とうじ)を置かない社員による酒造りを始めた。90年から止まっていた輸出も再開した。海外営業の渡航費の方が高く付くほどの少量からスタートしたが、今では売り上げの1割にまで成長した。

 会長 社長交代した11年は、社員だけで酒を造りだして初めて、全国新酒鑑評会で金賞を取った年だった。これで安心して後を託せると思った。ただ、酒心館は理想にもっと近づけたい。まだ道半ばだ。

〈神戸酒心館〉 前身が1751年創業の酒造会社。設立は1996年。銘柄は「福寿」。2014年6月期の売上高は約9億9600万円。資本金6千万円。従業員35人。