旧弘世助三郎邸(現・蘇州園)
旧弘世助三郎邸(現・蘇州園)

 住吉川を語るとき、忘れてならないのが、明治から昭和初期にかけ、この地に“日本一の富豪村”が出現したことだ。現在の地名で神戸市東灘区住吉山手、住吉本町、御影郡家周辺。当時は武庫郡住吉村観音林、反高林と呼ばれていたエリアだ。

 住友吉左衛門(住友財閥)▽久原房之助(久原財閥、日立製作所創業者)▽弘世助三郎(日本生命)▽乾新兵衛(乾汽船)▽阿部房次郎(東洋紡績)-など日本経済を牽引していた名だたる顔ぶれが邸宅を構えた。

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 「東の田園調布(東京)、西の六麓荘町(兵庫県芦屋市)が高級住宅地と言われるが、昔の住吉、御影は桁違いの邸宅群だった」

 ダイワボウホールディングス最高顧問の武藤治太さん(81)は振り返る。鐘淵紡績(後のカネボウ)中興の祖と呼ばれた武藤山治の孫で、自身も戦前から20年ほど、この地で暮らした。

 どれほどすごかったのだろうか? 

 武藤さんの記憶をもとに作成した地図によると、邸宅数は約20カ所。敷地が3万坪(9万9千平方メートル)超の御屋敷もあり、「洋館や和館が意匠を競い合っていた」と振り返る。

 住友邸の北側には、この地の大富豪たちが交流する社交場「観音林倶楽部」があった。武藤さんは「当時の日本の針路はこの倶楽部で決定されていたと言っても過言ではない」と話し、「阪神間モダニズムという独自文化も育まれた」と力を込める。

 こう話す武藤さんの邸宅は、建築家ヴォーリズが建てた洋館のほか、和館、茶室、使用人用の建物があり、5人きょうだいのそれぞれにお手伝いさんが付いていた。「確か、大きな食堂には援助していた画家の絵画があったなあ」

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 日本一の富豪村。それを裏付けるかのような資料がある。住吉歴史資料館が編集し、住吉学園が発行した「わたしたちの住吉」には、1932(昭和7)年の一世帯当たりの所得税の平均納税額が記述されている。県平均が88円の時代。武庫郡住吉村は1070円で1位。2位は同郡御影町の286円、3位が同郡精道村(芦屋市)の182円。神戸市は7位の122円だった。住吉村は県平均の約12倍、御影村の約4倍に上り、桁違いぶりを示している。

 住吉村の大邸宅群の中でもひときわ異彩を放っていたのが久原邸だった。敷地面積は3万坪と、何と甲子園球場の2・5個分。邸内にはロシア風の洋館が建ち、六甲山の冷風を送るため、山から直通トンネルを掘ったとのエピソードも残る。(石川 翠)