「まるで洗濯機の中に放り込まれたよう」(当時18歳、大学生男性Bさん=伊丹市)
直前の伊丹駅ホームで、オーバーランした電車を見ていたBさん。乗り込んだ先頭車両で事故に遭う。2005年4月25日午前9時18分、脱線。1両目は線路から大きく離れ、線路脇にあるマンションの立体駐車場に飛び込んだ。
「周囲はほぼ真っ暗で何も見えない。目を凝らしたら分かったかもしれないが、そこまで脳裏に焼き付けたくなかった」(Bさん)
後に分かることだが、そこは駐車場の地下部分だった。1階入り口から突っ込んだ1両目は、駐車場の地下空間に突き刺さり、激突した壁を崩落させた。
ホコリ、香水、血が混じったような臭い。吐き気がした。「こんなところで死にたくない」。強く思った。脱出したのは、ドアからだったか、窓からだったか。地上に出て全身を確認した。
長期の療養を余儀なくされる大けがを負った。それでもこの時は、ほっとした。
「生きてはいられるんや」
2両目はマンションの外壁に張り付いていた。建物に巻き付くように「く」の字に曲がった。
続く3両目も、2両目に激突する形で大破した。
伊丹駅から3両目の先頭部分に乗り込んだCさん(当時63歳、会社員女性=川西市)。混んだ車内でポールにしがみついていた。耳をつんざく不吉な音、それに続く衝撃で、座っていた夫婦の上にのしかかった。その後の記憶はすっぽりと抜け落ちている。
気付けば、担架の上。担架といっても電車の座席だった。一般の人が運んでくれているようだった。持っていたかばんはなく、ズボンも脱げていた。あおむけのまま顔の位置も動かせず、ただ空を眺めた。青い空だった。
「この事故のこと、みんな知らんのかな。でもヘリコプターが飛んでるから、ニュースになっているのかも。そんなことを思っていた」(Cさん)
同じく3両目に乗っていたDさん(当時38歳、派遣社員女性=川西市)は、車体のどこかと、上から折り重なる人の間に挟まれていた。意識が途切れ途切れになる。てっきり阪神・淡路大震災のような地震が発生したのだと錯覚していた。
声は出なかった。手を必死に伸ばすと、誰かが握ってくれた。「人がいます!」。その声に安心し、気を失った。
座席に座り、本を読んでいた西宮市の坂井信行さん(当時40歳・会社員)。ガタガタという揺れの後、3両目の先頭から見える2両目が傾いていく。そこからの記憶は断片的だ。
ブルーシートの上にいたこと、家族と、出勤するはずだった会社に電話したことをわずかに覚えている。次の記憶は、工場内で寝かされていた。事故現場近くの日本スピンドル製造(尼崎市)だった。鎖骨や肋骨などが折れていた。警察が来て「名前を言えますか」と問われ、答えた。
3両目までと違い、進行方向の右側へ大きく脱線した4両目。座っていた乗客が投げ出され、人が人の上に積み重なった。加藤慶子さん(当時45歳、会社員=西宮市)の眼前には、あるはずの3両目がなく、外の景色が広がった。
「私たち1両目に乗ってないよね?」(加藤さん)
乗り合わせた知人に確認した。脱げた靴を探し、自力で歩いて車両から出た。けがの痛みを感じる余裕はなかった。
土煙が上がり、油の臭いが立ち込める。サイレンが次第に大きくなっていく。未曽有の大事故。救出活動が始まろうとしていた。(名倉あかり、大田将之)