太平洋戦争後の混乱期に、両親を失い生き別れた兄弟が、70年の時を経て、亡き父母の記憶をたどり、絆を確かめ合っている。元神戸市職員の白井勝彦さん(75)=神戸市垂水区=と長谷川洋一さん(85)=福岡県。2人の父は、戦後旧ソ連軍の捕虜となりウズベキスタンで死亡、母は勝彦さんを連れ炭鉱で働くが間もなく病死。孤児となった兄弟は、対照的な人生を歩んできた。(貝原加奈)
「お兄さんですか」
「久しぶりね」
5年前、勝彦さんは入院中の兄、洋一さんの病室を訪ねた。会うのは40年ぶり、2人肩を並べて写真を撮ったのは70年ぶりだった。
福岡県の八幡製鉄所に勤めていた兄弟の父は、勝彦さんが生まれる直前に満州へ出征した。母子3人で親戚の家を転々としていたが、母は洋一さんを伯母の元へ預け、勝彦さんを連れ炭鉱の寮で暮らすように。勝彦さんが5歳の時、体調を崩し亡くなった。36歳だった。捕虜になった父は肺結核などにかかり、野戦病院で命を落とした。
洋一さんは、高校卒業後、就職先が決まらず伯母の家を飛び出した。その後は「どまぐれた(道を外れた)」。長い間日雇いで働き、今は介護サービスを受けながら1人で暮らす。
一方、勝彦さんは母亡き後、炭鉱に住む夫婦と暮らし始めた。9歳の時、夫婦の養子になり、京都の大学で学んだ。神戸市職員として働き出してから、自身の家族について調べ始めた。「自分の生い立ちが分からず、根無し草のように思えた」と振り返る。
兄の存在をはっきりと知ったのは高校生の時。洋一さんが生前の母に宛てた手紙を養母が見せてくれた。
◇ ◇
ぼくが大きくなったらおやこ三人いっしょになって楽しくくらしたいと思っております
高い本なんかいりませんから二人でにくでも食べて元気でくらしてください
◇ ◇
思いやりにあふれた手紙だった。勝彦さんが、30歳の頃手紙の住所を手掛かりに、洋一さんを訪ねた。作業員用の宿舎の片隅にいた兄は年齢より年老いて見えた。「思い描いた兄と違い、隔たりを感じた」。自然と足が遠のいた。
40年がたち退職した勝彦さんは、ウズベキスタンにある父の墓地を訪れることを決め、洋一さんにも報告した。以来、手紙や電話で近況をやりとりするように。母が着物を売り勝彦さんにだけ白米を食べさせていたこと、母と洋一さんの小学校を訪ねたこと-など記憶をひもとき話した。
「父も母も兄弟として生きることを望んでいるように思えた」。戦争で父母を失った悲しみは癒えない。ただ、「思いやり合う人がいることがありがたい」と勝彦さん。戦後75年、遠くで暮らす兄に思いをはせた。
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