阪神・淡路大震災で傷ついた子どもたちをケアした兵庫県芦屋市の「浜風の家」が17日に閉館する。1999年1月17日から19年。開設に尽力した直木賞作家の故藤本義一さんは、子どもたちの健やかな成長を願い、浜風の家に“夢”を託していた。閉館が迫る今、浜風の家が果たした役割をあらためて考えたい。「義一さん」が遺した言葉と、大人になったかつての子どもたちの姿を通して-。
「ええ娘さんになったなー」。浜風の家の元施設長、奥尾英昭さん(78)=尼崎市=に声を掛けられ、照れたように笑った。
昨年12月中旬、かつての利用者や指導員らが集った「浜風の家」の同窓会。会社員橋本侑沙さん(27)=西宮市=も、約10年ぶりに訪れた。
皆でケーキを食べ、思い出話に花が咲く。「座布団投げしたよね」「はだしでデッキを走り回って、とにかく全力で遊んだ」-。時計の針が一気に戻った。
橋本さんが阪神・淡路大震災に遭ったのは、4歳のとき。芦屋市のマンション9階で、両親と兄、姉、末っ子の橋本さんと5人で暮らしていた。
突然の強い揺れ。両親はきょうだい3人に、二段ベッドの下の段に避難するよう言った。何が起きたか分からないまま、3人で肩を寄せ合った。
「寒くて、怖かった。二段ベッドの中で、歯がずっとカチカチと震えていたのを覚えている」
ほかの記憶はおぼろげだ。おにぎりをもらったこと、給水車が来てくれたことは思い出すけれど、震災後1~2カ月を神戸市北区の親族宅で過ごしたことはほとんど記憶にない。
ただ、震災から20年以上たっても、「地震が夜中に起こると、怖くて、歯がカチカチと震える。震度3とかでも眠れない」。
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被災児のケア施設として、浜風の家が建ったのは震災から4年後。橋本さんは小学3年からほぼ毎日、学校のあとは浜風の家で友だちと遊んだ。
トランプ、お店屋さんごっこ、隠れんぼ、水遊び…。土日も予定がない日は訪れた。兄や姉とは年が離れ、両親は共働き。「必ず誰かがいて、いつ来てもさみしくない。ひとりぼっちにならない場所だった」
友だちとの人間関係に悩んでいたときは、「きょうは遊びに来たんちゃうねん」と言って、指導員に40分間しゃべり続けた。
「夢中で遊んで、相談できて、心も体も全部発散できていた」
やがて遊ぶだけでなく、紙風船を使ったイベントを自ら企画したり、中学生になると震災行事の運営を手伝ったりした。
「『浜家』はわたしの居場所だった」
27歳になった今も、「なわとび大会 準優勝」「カプラ積木で遊ぼう 優勝」など、浜風の家でもらった賞状を残している。「これからもずっと保管しておくつもり」と橋本さん。
まもなく閉館する施設には、こう伝えたい。「受け入れてくれて、ありがとう」と。(中島摩子)
【藤本義一さんの言葉】 未来を背負う子どもたちが目標を失わないよう、シェルターみたいな場所にしたい(「浜風の家」起工式で。1998年5月15日、神戸新聞夕刊)