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神戸市内で開かれた原爆を伝える写真展で、父親の吉田幸一さん(右)と語る高奈生美さん=神戸市中央区東川崎町1(撮影・長嶺麻子)
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神戸市内で開かれた原爆を伝える写真展で、父親の吉田幸一さん(右)と語る高奈生美さん=神戸市中央区東川崎町1(撮影・長嶺麻子)

 長崎市で9日に営まれた平和祈念式典には、3歳で被爆した父親を持つ神戸市中央区の高奈生美さん(54)が参列した。高齢化で年々参列が難しくなっている被爆者たちに代わり、被爆2世として兵庫県の遺族代表を託された高さん。「平和の尊さを若い世代に伝えていく責任を感じた」と決意を新たにした。

 高さんの父、吉田幸一さん(79)=神戸市西区=は当時、爆心地から4、5キロ離れた造船所の社宅に住んでいた。母親におんぶされ、近くの雑木林で見上げた空が蛍光灯のような真っ白な光に包まれたことをはっきりと覚えている。

 後に無事が判明した姉を、爆心地で両親と一緒に捜し回った。路面電車の中で乗客がつり革を握って立ったまま亡くなり、川は死体だらけだった。幼き日の記憶は断片的だが、「同じ風景の夢を50~60代までなんべんも繰り返し見た」という。

 高校卒業後、一家は神戸へ移り住んだ。高さんら3人の子や孫たちに囲まれ、「幸せだと感じる半面、生き残ったことに後ろめたさもあった」と明かす。「子や孫の体調に何かあったら自分のせいだ」。常に放射線の影響に不安もあった。

 高さんら子どもたちとは、夏に戦争関連の催しに足を運び、長崎へ行けば原爆資料館を訪れた。「子どもたちにはできるだけ記憶にとどめてほしい。二度とこんなことを起こさず、平和であってほしい」と願う。

 自らも3人の子どもを育てる高さん。「母親になる前は亡くなった人々の無念さばかり考えてきたが、幼い子を抱えて生き残った人がどれほどの苦労をしただろう」と亡き祖父母らに思いを募らせる。子育てが一段落したこともあり、昨年、たまたまチラシを見て知った「兵庫県被爆二世の会」の活動に加わった。

 平和祈念式典に参加し、「長崎市長や遺族代表と政府や国連側のスピーチには温度差があり、被爆地の思いを国や世代を超えて伝えていく必要性を感じた。私自身も、もっと知らなければいけないことがある」と高さん。同席した小学6年の次女(11)と原爆資料館を訪れ、親子で話し合うことから始めるつもりだ。(石沢菜々子)

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