経筒(きょうづつ)の話を続ける。
経筒は死後の極楽往生などを願って、主に公家たちが経典を書写し、埋納する際に使ったとされる筒状の容器だ。
京都の弘法市で私が買いそびれ、骨董(こっとう)仲間のK老人の所有となった逸品は、国宝の藤原道長のものに似ていた。果たして、誰かが似せて作ったものなのか、それとも別の公家が埋納したものなのか-。
今、この原稿を書きながら、私が仏教美術に関心を持ったのは、あの「国宝級のお宝の買い逃し」がきっかけだった、と確信するに至る。
その後も、K老人の逸品を上回る品を見ることはなかったが、私も何だかんだと計5本の経筒を購入してきた。一番の“掘り出し物”は大阪・四天王寺の縁日で見つけた。
銅製で、筒身(とうしん)に気品漂う青さびがあり、一目ぼれした。高さ23センチ、直径10センチ。地中で千年のときを過ごし、何かのきっかけで掘り出されたに違いない。そう考えると、感動で胸がいっぱいになった。
女性の店主に値段を聞く。「ああ、この花入れ? 箱もないし、3千円でいいわ」
「しめた」と思った。経筒という認識はないようだ。私はほくほく顔で持ち帰った。
それから何年かたって、関東での所用の帰り、東京駅近くの古美術店に偶然立ち寄った。そこで、九州から出土したという高さ約40センチの石製の外筒、内側の銅製経筒の破片、収められていた経文の断片を見せられた。
発見されたときは土と一体化し、外筒を含め「土だるま」のような状態だったという。それを丁寧に解体したところ、青緑色のさびが染みついた経文の残骸が出てきたそうだ。さらに表具師が特殊な薬剤を用いて経文をはがし、台紙に張り付けたとか。
法華経(ほけきょう)の一部と聞いたが、子どものような字が印象的だった。庶民までも「極楽往生」を願い、慣れない手で写経して奉納したのだろう。
そういえばと、わが家の銅製の経筒のことを思った。あれも長い間、土の中で眠っていたはずだ。なのに、経年劣化した雰囲気がなかった…。
新幹線で東京を後にし、自宅に戻ると、すぐに経筒の蓋(ふた)を取って中を見る。外側ばかり見とれていたため、内側をじっくり見たことはない。
おかしい。土にまみれた気配がまるでない。新し過ぎるのだ。底を見て「寸龍」の文字が刻まれていることに、初めて気が付いた。製作者の名前だろうか。藤原道長の経筒にも、底に「伴延助」という製作者の名前が入っている。
ネットで検索すると、すぐにヒットした。1983(昭和58)年まで生きた滋賀の金工作家の名前だった。ということは、平安どころか、昭和に作られたものなのか-。
この話、まだ続く。
(骨董愛好家、神戸新聞厚生事業団専務理事 武田良彦)