鹿児島県にあった海軍の串良(くしら)基地は、やはり海軍の鹿屋(かのや)、陸軍の知覧(ちらん)などとともに、特攻機の出撃拠点となった飛行場だ。神風特別攻撃隊徳島白菊隊の一員だった宮﨑亘(わたる)さん(88)=神戸市長田区=が串良に着いたのは、1945(昭和20)年5月22日のことだった。
「滑走路らしい滑走路もない、だだっ広い運動場みたいなとこでしたね。閉校になった学校の教室みたいなところをあてがわれて、夜はそこで雑魚寝しました。長い間、滞在するわけやないからね」
「串良は、あちこちの航空隊に散らばっとった搭乗員が、特攻隊員として集まる場所やったんですよ。『おーい、生きとったか』『生きとるでー、明日、行くけどな』ちゅうような会話が、あちこちでありました」
「徳島の前におった佐伯(大分県)の同僚にも会いました。『お前も特攻か』って聞いたら、『うちの隊は特攻はしない。夜間雷撃で、撃ち落とされるまで何回でも行く』って言うてね。わしらは爆弾抱いて出撃して、それで終わりやからね。うらやましいちゅうか、『それが本当やな』って思うた」
鹿屋市串良総合支所によると、串良基地からは363人が特攻出撃し、命を落としたという。そこには、宮﨑さんがかつて所属していた姫路海軍航空隊の「神風特別攻撃隊白鷺(はくろ)隊」の63人が含まれる。そして、宮﨑さんにも出撃命令が出た。
「24日夜に第1次、わしは第2次に選ばれて、25日未明に出撃することになった。標的は輸送船やった。練習機の白菊の能力では戦艦とか空母とか、船団の真ん中におる主力艦まで、たどり着けへんちゅうことでしょうね」
「上官に呼び出されて、決意を寄せ書きするよう言われました。遺筆やな。『書いてどうなる』って思いもあったから、『書きとうない』って断ったんやけど、『書け』って言われたから。人生に区切りをつけるつもりで筆を取りました」
「薄暗い豆電球の下で、この場において自分に与えられたものは何か、とだいぶ考えました。書いたのは、たった一文字、『誠』です。軍人としてだけでなく、国民としてもそうだし、いろいろな意味で特攻で死ぬことは正しい、誠の心で出撃するいうことやね」
「自分に与えられた今の立場では、これが一番正しいんだと。『生きたい』という気持ちは込めてないよ。自分に言い聞かせる、得心させる、そんな気持ちやった」(小川 晶)
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