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公園の片隅に残る大阪陸軍病院金岡分院の忠魂碑=堺市北区長曽根町
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公園の片隅に残る大阪陸軍病院金岡分院の忠魂碑=堺市北区長曽根町

公園の片隅に残る大阪陸軍病院金岡分院の忠魂碑=堺市北区長曽根町

公園の片隅に残る大阪陸軍病院金岡分院の忠魂碑=堺市北区長曽根町

 中国・広東で従軍した兵庫県稲美町の藤田きみゑさん(98)が、看護婦の第一歩を踏み出したのは1935(昭和10)年。大倉山周辺(神戸市中央区)にあった「神戸市民病院付属看護婦養成所」に入る。

 「養成所に入るまで、看護婦を見たことなかったんです。子どものころ、体が弱かったからお医者さんにはかかってたけど、そこにはいなかった」

 「なりたかったわけやなかったけど、悪いイメージもなかった。よく考えることもなく、何となくで『いいなあ』と思ってました」

 養成所の教務主任の家に下宿しながら看護婦の資格を取った藤田さん。38年から須磨の民間病院に勤務した。

 「前の年に日中戦争が始まって、だんだんと苛烈(かれつ)になってきた。実家に帰れば、近所の家の玄関に『出征兵士の家』って大きな木の札が上がってる。戦死した家は『誉(ほまれ)の家』。周りも戦争熱に浮かされてましたね」

 「広島の宇品(うじな)港から戦地へ向かう途中に神戸に立ち寄った兵隊さんとお知り合いになって、慰問袋を送ったこともありました。いたたまれない心境が、だんだん申し訳ない気持ちに変わって『私に何ができるだろう』と。看護の道を選んで資格を取ったんだから、『うってつけのチャンスや』と思うようになりました」

 39年の末ごろ、藤田さんは、別の民間病院で働いていた養成所時代の友人に決意を打ち明ける。

 「私には10歳近く上の兄がおるんですけど、体が小さくて兵隊さんになっていなかった。友人にもお兄さんがおったけど、戦地に行ってない。2人とも、家族で1人ぐらいは協力せんといかんと思ってましたから、『私たちだけでも戦争のお役に立とう』『滅私奉公しよう』って盛り上がって」

 「だけど、直接戦地へは行けませんやん。だから、2人して神戸にあった陸軍の司令部に手紙を出したんです。便せんに2枚ほど。『お国の役に立ちたい』みたいなことを書いて、最後に血判を押しました。病院のメスで親指を切ってね。誰に相談したわけでもなく、今でも『ようあんなことやったな』と思いますわ」

 意気込みが通じたのか、すぐに返信があった。藤田さんと同級生は、40年1月から大阪陸軍病院金岡分院(現堺市北区)で働き始める。(小川 晶)

2018/8/16
 

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