1941(昭和16)年1月、外地への派遣を命じられた看護婦藤田きみゑさん(98)=兵庫県稲美町=を乗せた船は、広島の宇品(うじな)港をたった。
「台湾で1泊し、6日ぐらいかけて中国の広東に着いた。野戦病院のような場所かと思ったら、金岡分院と同じくらい大きな病院でした」
「日本赤十字社の救護看護婦と一緒に勤めてね。戦地やけど不安はなかった。不思議ですね。勝ち戦と信じとったからでしょうか」
藤田さんが配属になったのは、広州の広東第一陸軍病院。前線に近い場所へ看護の応援へ行くこともあったが、内科的な処置がほとんどだったという。
「勤務は2交代で忙しかったですけど、宿舎へ帰れば、それなりに自分たちのいい仲間ができて。なぎなたを習ったり、白衣がどろんこになるまでバレーボールをしたりしてました」
「兵隊さんは日本人だから、広東の言葉は必要なかった。覚えとるのは『カイカイデ』(早く)。遊び過ぎて門限に遅れそうになったとき、人力車の車夫さんを片言でせかしてました」
41年12月8日、太平洋戦争が勃発する。
「ラジオの大本営発表で真珠湾攻撃の戦果を聞いて、私もみんなも万歳して喜びました。『あんな大きな米国と戦って勝てるかしら』って心配にもなりましたけど、負けるとも思わなかった。日本が敗戦を経験してなかったからですかね」
「でも、バレーボールは開戦でおしまい。香港の上陸作戦の負傷兵が大勢運ばれてきて、そんなことしとる余裕もなくなったし。米国と戦うってなったら、やっぱり雰囲気も変わりますやんか」
緒戦は連戦連勝だった日本軍も、連合国の物量に押され、劣勢を強いられるようになる。広東の上空を敵機が飛ぶようになり、空襲の被害も出始めた。
「身の危険を感じるようになっても『帰りたい』とは思わなかった。家族の心配もしなかったね。生きて帰れるとも、帰れないとも考えなかったですわ」
「若かったのか、戦争というものが分かってなかったのか。ただ夢中のうちに毎日が過ぎた。どれだけ人の生き死にを見ても、『お国のため』いうマインドコントロールは解けなかったんかね」
(小川 晶)