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「戦争で亡くなった人は気の毒としか言えない」。そう強調する井登慧さん=明石市二見町東二見(撮影・大山伸一郎)
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「戦争で亡くなった人は気の毒としか言えない」。そう強調する井登慧さん=明石市二見町東二見(撮影・大山伸一郎)

「戦争で亡くなった人は気の毒としか言えない」。そう強調する井登慧さん=明石市二見町東二見(撮影・大山伸一郎)

「戦争で亡くなった人は気の毒としか言えない」。そう強調する井登慧さん=明石市二見町東二見(撮影・大山伸一郎)

 「陸軍中野学校二俣(ふたまた)分校」(現浜松市)出身で、台湾の先住民「高砂族」による遊撃(ゲリラ)戦部隊の訓練に携わった井登慧(いとさとし)さん(93)=明石市。戦後、数回にわたって訪れた現地で感じたのは、戦争の加害の側面だった。

 「阿里山にも滞在しました。尾根なんかの風景はそのままで、兵舎だった建物も残っていて。高砂族には会えなかったですけど、当時の日々がよみがえってきましたね」

 「日本のために忠誠を誓ってくれた高砂族に、私は今でも感謝しとります。ただ、客観的に見れば、彼らはもともと日本国民ではない。皇民化教育で洗脳しとったわけですよね。ニューギニアとかにも派遣されて大勢亡くなったのに、戦後は日本国民じゃなくなって、満足のいく補償もなされなかった」

 「そもそも私らが学んだ遊撃戦いうんは、兵隊じゃない一般の市民も巻き込むという考え方が根本にあるんですね。『一億玉砕』の発想があるから、それが当たり前だと。実際に沖縄の離島に派遣された二俣分校の同期生は、普段は教員として振る舞って、その裏で敵の上陸に備えて住民の遊撃戦部隊を編成するよう仕向けとって」

 中野学校の出身者らがまとめた記録によると、太平洋戦争の終局で各地に配属された井登さんら二俣分校の1期生は、本校を含めて全ての期の中で最も多い36人が戦死(自決1人を含む)したとされる。フィリピンで斬り込み隊の一員になったり、沖縄戦で投入された特攻部隊「義烈空挺(くうてい)隊」に組み込まれたりした同期生もいた。

 「遊撃戦の幹部を養成しても、戦局は全く好転しなかった。圧倒的な物量差の前に太刀打ちできなかったわけです。結局、任地や命令によって生死の運命が分かれるいうのは、正規軍と同じやったんですよね。私が生き残ったのも、台湾に連合軍が上陸してこなかったからでしょうし」

 「率直に言えば、二俣分校で学んだことを肯定的に捉えとるところもあるんです。そうでなかったら、原隊に合流してフィリピンで戦死しとったはずですから。ただ、一般人を巻き込んで戦う考え方も、『生き延びろ』いうて遊撃戦を教えたんも、参謀本部が戦局の悪化に向き合えず、なりふり構わなくなっとっただけの気もして」

 井登さんの軍歴書類には、陸軍騎兵学校を卒業した44(昭和19)年8月14日付で「中部軍司令部に転属」とある。中野学校の出身者らによる複数の記録では、実際に中部軍司令部付になったのは12月1日で、二俣分校での3カ月間は軍歴から抹消されたとみられる。参謀本部が秘匿にこだわった分校の存在と独特の秘密戦の教育を、井登さんが振り返る。

 「現実とかけ離れた幻とでも言うんでしょうか。戦争の大きな流れの中では、一人の力はちっぽけで、自分の意思で生き延びるなんてできない。結局、秘密戦士も一つの駒でしかなかったんです」

(小川 晶)

=おわり=

2016/8/27
 

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