第8部 終局の秘密戦

【5】いち早く本土決戦準備

2016/08/18 11:08

 1944(昭和19)年11月末、井登慧(いとさとし)さん(93)=明石市=ら「陸軍中野学校二俣(ふたまた)分校」(現浜松市)の1期生約230人が、3カ月間の課程を終えた。

 「卒業演習は、飛行場の爆破訓練でした。本土に上陸した敵が占領したとの想定で、変装して偵察したり、模擬の爆薬を担いで侵入したりして。私は敵の通行が予想されるトンネルに待機して、接近してきたら妨害する役割でした」

 「退校の時のことはあまり覚えていません。派手な式典があった記憶はなくて、分校長が訓示を述べるぐらいのごく簡単なもんだったと思います」

 44年12月、1期生はフィリピン、インドネシア、仏領インドシナ(現ベトナムなど)、台湾、朝鮮半島などのほか、連合軍の上陸に備えて千島・樺太から沖縄まで各地に散らばった。井登さんが配属されたのは、近畿、中部地方を管轄する中部軍司令部。庁舎は、大阪城公園(大阪市)内にあった。

 「司令部は、各地の部隊を統括する役回りなので、正規軍が常駐しているわけではありません。特命を帯びた私たちのような兵隊がいるぐらいでしたね。中野学校の本校を出た先輩たちもいました」

 「本土決戦が近づいているから、対策を練っておこうというわけです。中部軍の管轄だと、紀伊半島に敵が上陸するだろうという想定があり、今年5月に伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)が開かれた辺りで演習をしました。海を望む山の地形を確認して、ここに陣取ろうとか、そんな検討を重ねて」

 「1週間ぐらいおって、成果は参謀本部に上げていたみたいですけど、正規軍と共有するようなものではなかったと思います。あくまで自分たちが遊撃(ゲリラ)戦をするための情報ということで」

 旧防衛庁防衛研修所戦史室が取りまとめた「戦史叢書(そうしょ)」によると、本土決戦の準備態勢を確立するための基本方針「帝国陸海軍作戦計画大綱」が策定されたのは45(昭和20)年1月。井登さんらは、それよりも前に具体的な作戦の検討に入っていたことになる。

 「普段は司令部に詰めて、隣にあった大阪城の天守閣で寝泊まりしました。当時、天守閣は陸軍の管理下に置かれとったから、2階の広間にベッドと毛布を持ち込んでね。一般の人は『軍人が大阪城を占領しとる』って言ってたみたいです」

 「寝る前とか、故郷の兵庫県上福田村(現加東市)のことを、ふと思い出すことはありましたね。生きて帰れるなんて考えてもみなかったですけど」

(小川 晶)

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