1943(昭和18)年1月、井登慧(いとさとし)さん(93)=明石市=は、姫路市に拠点があった陸軍第10師団の捜索連隊に入り、騎兵としての訓練を積んだ。
「入隊の時点で、歩兵、工兵、砲兵のような兵科が決まってるんです。希望制やなくて、適性を見て判断されて。第10師団は、満州(現中国東北部)の佳木斯(チャムス)に駐屯してたもんで、現地から来た将校と下士官が初年兵教育をしてくれました。姫路には練兵場が2カ所あって、たくさんおる歩兵は姫路城の南側にあった『城南練兵場』。私らの騎兵なんかは北側の『城北練兵場』でした」
「訓練は乗馬が主で、『尻じゃなくて、脚で乗れ』と。太ももに力を入れて馬体を挟むんですね。こすれて出た血がズボン下に引っ付くから、お風呂で剝がすのがしんどくて」
「馬は『活(かつ)兵器』いうて、天皇陛下からもらった生きた兵器だと教わりました。人間よりも馬が大事やから、食事の順番も馬が先。演習で蹄鉄(ていてつ)が外れてもうたら、ひづめが割れてまうから乗ったらあかん。どんなに遠くても引いて帰ってこないといけない。歩兵は『だーっと走っていきよって、騎兵はええのう』言いますけど、騎兵からしたら『馬の手入れをせんで、歩兵はええのう』ですよ」
同年3月、満州に移った井登さんは、本格的な訓練を積む一方、甲種幹部候補生の試験に合格。将校の養成課程を受けるため、44(昭和19)年1月、原隊を離れて「陸軍騎兵学校」(現千葉県船橋市)に入る。
「騎兵学校では実践的な演習が多かったですね。敵が陣地を構築しとる想定で、馬を飛ばしていって機先を制す。馬に乗ったまま軍刀を抜いてもいいし、馬から下りて小銃や機関銃で攻撃してもいい」
「当時は戦車が出てきて、昔は花形やった騎兵もだいぶ影が薄くなってましたね。南方のジャングルでは馬なんて使えないから歩兵と一緒ですし。ただ、満州のような広いところでは、まだまだ活躍できるいうことやったんですね。『時代遅れやなあ』とか『戦車の方が楽でええなあ』とか、いろいろ思いましたけど、軍隊の編成で兵科があるんやからね。しょうがないと」
井登さんは、騎兵学校を同年8月に卒業し、原隊に戻る予定だった。だが、連載の1回目で紹介した不可解な面接をへて、陸軍中野学校二俣(ふたまた)分校(現浜松市)へ。合流するはずの原隊はその後、朝鮮半島の釜山からフィリピンに渡り、上陸してきた連合軍との戦闘で壊滅したという。
(小川 晶)
2016/8/22