神戸市中央区の東遊園地には、東日本大震災の被災地からも多くの人が慰霊に訪れた。数え切れない命を奪った二つの大震災。「1・17と3・11は日本中が犠牲者を悼み、次の災害に備える決意の日にしたい」。東北の被災者は揺れる炎に願いを重ねた。
「灯(あか)りの数だけ貴い命があったことを忘れません」。宮城県気仙沼市立条南中学2年の千葉颯記(さつき)君(14)はろうそくに火をつけ、手を合わせた。
東日本大震災当時は小学6年生。友人の親に連れられ、山へ逃げた。母は津波にさらわれたが、流れ着いた民家の2階に上がり、奇跡的に助かった。
条南中は被災地の実情を学ぶ授業を続けている。変わり果てた風景を見るたび、顔を伏せていたが、インターネットで復興した神戸の街並みを見つけ、気仙沼の将来を重ねた。
神戸には同級生ら9人で訪れた。「みんなの分まで精いっぱい生きようね」。2日後に再会した母の言葉を胸に秘め、気仙沼市で活動するNPO法人「シーズ・アジア」(神戸市)の招きに応じた。5時46分、黙とうを終えると「18年たっても亡き人を思う人がたくさんいることに感動した」と颯記君。「決して被害を忘れず、復興する。その道のりを学びたい」と力強く語った。
岩手県野田村からは8人が光の輪に加わった。
東日本大震災の後、同村を20回訪問し、仮設住宅の支援を続ける西宮市のNPO法人「日本災害救援ボランティアネットワーク」が招待した。
村の復興に奔走する自営業の貫牛(かんぎゅう)利一さん(51)は、小学4年の次男海翔(かいと)君(10)を連れてきた。「2年前まで神戸の地震は人ごとだった。だけど今は…」
18メートルの津波が37人の命を奪い、村は壊滅。母親と車に乗っていた海翔君は民家の2階に逃げた瞬間、車が流された。貫牛さんは集まった救援物資の配布に奔走。人手が足りず途方に暮れていたとき、阪神・淡路の被災地から多くの人が駆け付けた。一緒に支援グループを結成し、2年目の今も寄り添ってくれる。
「野田村の復興はまだ先が見えないが、18年後の神戸の姿が私たちの励みになる」。貫牛さんはそう話し、揺れる炎を見つめた。
(安藤文暁、木村信行)