尼崎JR脱線事故は25日で発生から15年となる。亡くなった乗客106人のうち102人は、兵庫県の尼崎市記念公園総合体育館(現ベイコム総合体育館)に設けられた遺体安置所に運ばれた。駆け付けた家族たちは体育館の中で何を思い、どう過ごしていたのか。公文書や遺族の証言から追ってみたい。(取材班)
「どちらかというと妻が『いないこと』を確認するために行ったんです。外はすごい青空で暑かった」
2005年4月25日昼すぎ。西宮市に住む当時56歳だった会社経営の男性は、20代だった娘と体育館に入った。まだ周辺に報道陣はほとんどいない。
安置所は開設して間もない頃だった。尼崎市の内部資料によると、事故発生から約50分後、尼崎東署は体育館を借りたいと市に伝えていた。午後0時10分、1階サブアリーナを安置スペースとし、警察官が遺体を並べて検視していく。
男性は病院を渡り歩いて妻=当時(51)=を探したが見つからない。安置所ができたと聞いて訪ねると、地下1階に案内された。
教室ほどの広さの一室に、既に1組の家族が座っていた。幅約2メートルの黒板のような板に10人の名前を書いた紙が順番に貼られる。妻の名前はない。ほっとして約10分後、再び貼り出されて2番目の紙が妻だった。
「まさか、ですよね。携帯電話を持っていなかったから、どこかにいるんじゃないかと、期待していたんですけれど」
遺体との対面を待つ間、次々と別の家族が来て悲鳴とおえつが聞こえた。ロビーの端々に立つJR西日本の社員に「なんで殺したんや」と怒鳴る声が響いた。
午後6時ごろ、「ご確認を」と促されてアリーナに入る。仕切り板の手前に、十数体の棺が並ぶ。名前を書いた紙をふたに添え、所持品と衣服が袋に入って頭に近い床に置かれている。
棺の小窓を開け、ふっくらとした顔は妻に思えたが、違う気もした。遺品のバッグには確かに妻の免許証や財布が入っていた。
ところが、体育館の裏口で寝台車を待っていると、娘が服の入った袋を開けて言った。
「『これ、お母さんのじゃない』とね。車両内で妻のバッグが飛ばされて、別の女性のそばで見つかったんです。すごく顔が似ていて、妻には謝っても謝りきれないところでした」
警察官はバッグの中の免許証で、別人を妻とみていたのだ。50代くらいの他の遺体を探してもらうと、身元不明とされる数体の中に、それらしき女性がいた。
午後8時ごろ、傷のない顔を見て、こみあげた。ふたを開いて足も確認する。外反母趾で親指が少し内側に曲がっているのを眺めて、ようやく会えたと声を掛けた。
アリーナの奥では、県警の男性検視官が、応援で駆け付けた捜査員らに指示しながら調書を取っていた。
遺体そばの所持品から、携帯電話の着信音が鳴っている。家族や友人が安否を気遣って掛けてきているのだろう、と誰もが想像した。「電話、出た方がいいですか」。手を止めて聞く捜査員がいたが、検視官は首を縦に振らなかった。
後日、その判断を聞いた県警幹部は思った。
「携帯電話の持ち主が遺体と違っていたら、生死を取り違える可能性もある。ただ、思いが込もった着信に応えないという決断は決して軽くなかっただろう」
午後9時半、収容した49体のうち25体の身元が分かる。事故現場では救出作業が続き、遺体は次々と運ばれてくる。