終戦は14歳。89歳になった今も記憶は鮮明だ。兵庫県宝塚市在住の田間貞雄さんは西宮市立浜脇小学校(同市浜脇町)の卒業生。二度とない10代の日々を戦時下ですごした。今では想像もできない死と隣り合わせの日常を、ハーモニカを吹き、家族を思い、懸命に命をつなぎながら生きた。75年前の少年が見た「戦争」を語ってもらった。(鈴木久仁子)
「つらいことばっかりやった。毎日。でもなつかしいな」。田間さんは窓の外を眺め、まぶしそうに目を細めながら語り始めた。
西宮市内を壊滅的に焼き払った1945年8月5日夜の空襲は忘れられない。家族で囲んだ食卓ではその日、地元、香枦園浜で釣ったイワシが話題になった。「煮付けは明日の楽しみ」と言われ、我慢した。ほどなく空襲警報が鳴り響いて外に飛び出した。空から降ってくる焼夷(しょうい)弾を避け、友だちと一緒に走った。
「ヒューン。ドーン! と聞こえたと思うと、友だちの上着だけが目の前に落ちてきた」。直撃された友だちは影も形もなかった。後で、友だちのお母さんに上着を返した。「うわーって泣きはった」
記憶は尽きない。「爆風で飛び出さないよう目と耳を必死で押さえて逃げた。小学校の近くの防空壕(ごう)はいっぱい。若い女の人が『化粧品を忘れた』と嘆いて、そばの男性に『どうでもいい』としかられていた」。後ろでは、ゲートルを巻いた兵隊が腰が抜けたように座り込んで「お母さん」と言いながら泣いていた。
ふと、父親が焼夷弾から流れた油でタイヤに火が付いた自転車を押しながら、学校の壁沿いに歩いてくるのが見えた。「お父さん!」と叫んで駆けだした。その瞬間、爆音がした。
さっきまでいた防空壕が直撃されていた。10秒出るのが遅ければ死んでいた。家はなくなった。イワシの煮付けも食べ損なった。
田間さんは同年春、大阪駅辺りでも空襲に遭った。学徒勤労動員で男手がなくなった同駅で石炭を運んでいた時、「敵機来襲ー、敵機来襲ー」と聞こえた。
普段殴ってばかりの上官は「適当に逃げろ」と言うだけだった。仲間とあわてて地下へ。多くの人で、煙と熱に耐えかねて地上に出た人は爆弾と焼夷弾にやられた。友だちとスクラムを組んで「死ぬなら一緒や」と耐えた。「どうせすぐ死ぬ、と思っていた。そう教えられとったから」。地上ではたくさんの人が亡くなっていた。その中を歩き、西宮まで帰った。
小学高学年のころ、西宮市の夙川に住む先生の家でハーモニカを教えてもらった。「伴奏を同時に吹く」技を習った。「夢中になった。楽しくて」。音楽が好きになり、オルガンもたしなんだ。いまも、ハーモニカを大切に持っている。
75年前の夏は、悲惨な中にも輝かしい思い出として残った。でも終戦後、思いはぬぐえない。「お国のためにって殺し合って。なんであんなことしとったんや」。「こんな小さな星で争って、大勢が亡くなった。今の若い人に、それぞれの思いで考えてもらえれば」と願いを口にした。
【たま・さだお】1931年、西宮市生まれ。新聞社勤務を経て教育関係の会社で役員を務めた。趣味は船旅。宝塚市在住。









