尼崎JR脱線事故の刑事責任を問われ、27日に判決を迎えるJR西日本元会長、井手正敬(まさたか)(78)。国鉄改革を成し遂げ、JR西の礎を築いた豪腕は、一方でモノ言えぬ企業風土にしたと指摘される。これまでの公判供述や関係者の証言から、井手の輪郭を描きたい。(小川 晶)
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「ほぼ毎年、私の会社は組織の改正があったと思います」
昨年11月、神戸地裁の証言台に立った井手。JR西の職を離れた今も「私の会社」と繰り返し、法廷でそのワンマンぶりを印象づけた。その原点が、1987年4月の国鉄民営化を導いた経験だ。
「私が国鉄改革にある程度力を発揮したといいますか…」「分割民営を推進した責任者の一人として…」
膨大な赤字を抱えていた国鉄。古い官僚組織を突き崩した経緯を、井手は「宮廷革命」と表現する。その実績が、その後の井手のイメージを形作った。JR西会長時代の井手と知り合った大阪の財界人の第一印象も「民営化を成し遂げた人」だった。
その道のりは険しかった。守旧派がそろう国鉄上層部は、報復人事で井手ら改革グループを分断。労使関係も悪化した。
「事務屋は、列車を動かす技術もないのにエスカレーター式に偉くなる。組織が苦しい時に勇気を持って改革を進めるのが役割なんだ」。80年代前半、東京の下町の飲み屋に集まった官僚仲間に、井手はそう繰り返したという。
当時、人事権を握る秘書課長。エスカレーターを順調に昇りながら組織に盾突く姿を、周囲は「変人」と呼び、改革を「夢物語」とあざ笑った。井手の力説を、同席者の一人は「不安を打ち消そうと、自分に言い聞かせている」と受け取った。
「(国鉄の)総裁室長として、(JR)各社の大体の組織を決める立場にありました」「(87年の)2月中旬に西の会社に行くように言われました」
井手が法廷で国鉄時代を振り返る。政治家への根回しなどを担う一方、強いリーダーシップで仲間を取りまとめ、86年2月、総裁室長に就任。権限が強大で、長く空席が続いていたポストだった。
民営化後の“看板”と位置付けたJR東日本の副社長に就く構想もあった。井手にふさわしい処遇だったともいわれるが、土壇場でJR西の副社長に決まった。
当時の関西は「私鉄王国」。採算のとれない地方路線も多い。年間収入の約3倍に当たる約2兆2千億円の債務を抱え、本州JR3社で最も経営基盤が脆弱(ぜいじゃく)とされた組織が、民営化をけん引した功労者に与えられた新天地だった。
「社の礎を築いたという自負だけではない。国鉄改革を導いたのに、思い通りにいかなかった人事に対する反骨心が根底にあったのだろう」とJR西の元幹部。「私の会社」という言葉に、井手の思いを推し量った。
=敬称略=
2013/9/24