ビルマ(現ミャンマー)西部のインドとの国境近くで、日本の陸軍第55師団は連合軍と激しい戦いを繰り広げていた。1944(昭和19)年5月。同師団衛生隊の担架兵だった細谷寛(ほそたにひろし)さん(96)=神戸市垂水区=も要衝アキャブの北方、プチドンの辺りで前線にいた。ビルマに雨期が訪れようとしていた。
「雨期に入る前に夜襲攻撃をかけたんです。敵の背後に回って夜を待ち、重砲を合図に歩兵が突っ込む。そのうち負傷兵が出て後方へ運びます。私は、それまで負傷者に付き添うだけで、担架で運ぶのは初めてでね。4人で担ぐんだけど、身長がみんな違うから、低い私の方に体重がかかってくるわけね」
「持ってるとだんだん重くなってくる。肩を変えたいけど、変えられないんですよ。今にも倒れそうになる。でも、味方はどんどん退却していく。もう投げ出したくなるんだけど、こらえる。やっと明るくなったころ、下ろすことができた。そのままへたりこんじゃって。苦しかったね」
ビルマの雨期は大量の雨が激しく降り注ぐため、両軍とも動くのが難しくなる。雨期が明けた44年10月ごろ。細谷さんは、また負傷兵を運ぶことになった。
「雨期の間、警備なんかに追われるけど環境は劣悪で休養も取れず、食事も野菜がなくって弱ってしまってね。歩くのが精いっぱいだったんですね。三八式銃が重いから銃口を下にして、肩にかけて歩いとったんです。そしたら下り坂で左足が滑った時に肩から革ひもが外れて、銃を左足の甲に落としてしまったんだね。しまったと思った。でも歩けるから、大したことないと思ってた」
その日、負傷者とマラリア患者の2人を野戦病院まで運ぶよう命じられる。カラダン河の支流だったと記憶している。
「3人で竹のいかだに乗ってね。夜になってから下る。でも、病院がどこにあるかも分からんから運任せやね。たまたま夜明けに岸に着いた所が、野戦病院の下やったんです。日本語を話す声が聞こえて、ああ助かった、と思った」
「ところが、患者を届けて帰ろうとしたら歩けないわけ。ちょっと歩けば、ひっくり返る。もう体力が全然ないんです。はうようにして野戦病院まで戻って。倒れとったら、見つけてもらえたんやね。足は化膿(かのう)していて切開してもらった。野戦病院で倒れたから良かったけど、違ってたらどうなってたか分からんね。それが一つのね、生死の分かれ目だったんですよ」(森 信弘)
2015/8/26