宝塚市の今里淑郎(いまさとしゅくろう)さん(93)は1922(大正11)年、兵庫県長尾村(現宝塚市)に生まれた。41(昭和16)年春、大阪外国語学校(現大阪大外国語学部)の夜間部に入学。職工(工業)学校を卒業し、やがて来ると思われていた米国との戦争に向け、英語を学ぶつもりだった。しかし、今里さんは意に反してビルマ(現ミャンマー)語を勉強することになる。
「けんかするのに、相手のことが分からんとできんわな。これからアメリカと戦争になるから英語が必要になる、と学校の先生に勧められて飛んで行ったんや。でも、英語を勉強したのは初めだけ。英語(を教えること)が中止になったのか、仕方なく他を選ばざるを得なくなったわけや。それで、ビルマ語やマレー語の『南方語』と、中国語を勉強させられたんや」
「大阪外国語大学70年史」によれば、44(昭和19)年になっても英米科は存在している。大阪大によると、当時の夜間部の詳細は不明だ。ただ、同書には「太平洋戦争突入後は、英語が『敵性語』と目の仇(かたき)にされた」との記述がある。また「満州事変が起こると蒙古(もうこ)語部がもてはやされ、日中戦争後は支那(しな)語部が人気の的となった」とも。外国語教育が戦争の影響を強く受けていたのは間違いない。
「入学前、スピーカーを作っとった松下無線が工業学校の卒業生を募集しとってね。私らは金の卵みたいなもんや。いきなり中堅幹部で迎えられたんでっせ。それで、外国語学校は受かってから夜間に変えたんやけど、南方語の片言が分かるようになったら行かんようになったね。でも、ビルマに行った時はおかげで助かった。言葉を知っとると、現地の人の反応が分かるからね」
41(昭和16)年12月、太平洋戦争が始まる。今里さんは満20歳になった42(同17)年に徴兵検査を受けた。甲乙丙で始まる5段階のうち「乙種合格」。結核があり、身長は高かったものの、かなり痩せていた。会社に残るつもりでいると、召集令状が届いた。
「一番上の『甲種合格』のもんは、会社で引き継ぎをしとった。私は残る側やったのに行くことになってね。そら、誇らしい気持ちやった。俺も一人前やと。今の人には分からんやろうけど、あのころは兵隊に行けなんだら恥ずかしかったわけやな」
43(昭和18)年4月、現在の篠山市にあった兵営の営門をくぐった。
(森 信弘)
2015/8/19