ビルマ(現ミャンマー)中部のメイクテーラで、連合軍の戦車に包囲された陸軍歩兵第168連隊無線分隊長の今里淑郎(いまさとしゅくろう)さん(93)は、危急の事態を伝えようと陣地を抜け出した。夜の闇に紛れ、部下と2人で山道を急いだ。1945(昭和20)年3月1日だったと記憶している。
「今でも、よう分からんのやけどね。敵がおる所は恐ろしいと感じるんですな。第六感というかね。向こうはテントで明かりを隠しとるわけですね。でも、ここが危ない、ここは大丈夫、という感覚に従っていくと脱出できたんですわ。明け方までかかりましたけどね。敵陣を抜けて丘に登った時には、よう越えてきたなあ、と思いましたな」
「結局、10キロほど歩いたんですかな。第168連隊のうち離れた場所におった部隊の元に到達できたんです。ところが、応援に行ってもらうことはできなかったんですな。とてもじゃないけど、無理やと。断られたんですわ。そら、戦車に囲まれとるんやから自殺行為になるからね」
夜明けとともに、連合軍の一斉攻撃が始まった。だが、今里さんには、どうすることもできなかった。
「ダーン、ダーンと砲声がしてね。残してきた味方がやられとんのです。私は陣地を知っとるから、あんな所、戦車で撃たれたらイチコロや、と分かるんですわ。対戦車砲なんかないし、じゅうりんされますね。機関銃でもやられるしね。結局、連隊長(吉田四郎大佐)も戦死して。私らは生き残ったけど、包囲されとった400人の部隊は壊滅してしもたんですわ」
「3月20日ごろか、生き残った兵隊が集まったんですね。自分で歩ける者だけです。戦死してなくても、歩けん者は脱落して倒れとるわけですわ。この戦いで私の分隊は10人くらいやったんですけど、伝令の私ら以外はほとんど残ってませんでした。通信中隊の他の分隊もばらばらと集まってきましたけどな。顔は知ってるから、あいつも死んだか、あいつも死んだかとなりますわね」
この戦闘を含めた一連の「メイクテーラ会戦」で、日本軍は惨敗した。当時、ビルマ戦線では日本と行動を共にしてきたビルマ軍の反乱もあり、戦況は悪化するばかりだった。同年7月、今里さんは歩兵第168連隊通信中隊から、第49師団の通信隊に転属になった。(森 信弘)