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いかだにつかまって川を渡る日本兵(元日本兵による作品から、NPO法人神戸ミャンマー皆好会提供)
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いかだにつかまって川を渡る日本兵(元日本兵による作品から、NPO法人神戸ミャンマー皆好会提供)

いかだにつかまって川を渡る日本兵(元日本兵による作品から、NPO法人神戸ミャンマー皆好会提供)

いかだにつかまって川を渡る日本兵(元日本兵による作品から、NPO法人神戸ミャンマー皆好会提供)

 東へ、東へ。ビルマ(現ミャンマー)南部を流れるシッタン河を目指して、第55師団衛生隊の担架兵だった細谷寛(ほそたにひろし)さん(96)=神戸市垂水区=は歩いた。1945(昭和20)年7月20日にペグー山系を出て、数日がたっていた。雨期で平地はすっかり冠水し、疲れ切った兵士たちをさらに消耗させていた。

 「泥んこの中を1日、2日と夜通し歩くうちに足がふやけてくる。靴下は目が粗いから、砂が入ってこすれるんです。痛くて歩くのが遅れてきます。すると、遠くで銃声がする。いつ敵に遭うか心細いから、どうしても本隊へ付いて行こう、と思うわけやね。そのうち明るくなると、同じように遅れた兵がぼつぼつ歩いていて、つらかった。まだ26ですからね。こんなところで死んでたまるか、という気持ちだね」

 連合軍は渡河作戦の情報を事前につかんでいた。盛んに砲撃を加え、第55師団を含む日本の陸軍第28軍を苦しめた。

 「私はようやく追い付いた時、砲撃があって部隊が足止めされたから、助かったわけ。行軍が止まっている間、足に軟こうを塗って、付いていけるようになったんだね」

 旧防衛庁が編集した戦史叢書(そうしょ)によると、第28軍は7月下旬から8月中旬にかけ、渡河を決行。だが、いかだと共に流される兵や、いかだを手放して濁流にのまれる兵が続出した。数日間に約600体の遺体が流れてくるのを見たという連合軍の報告もある。戦史叢書の記録では、細谷さんの渡河は8月4日。渡河地点は中流の辺りだった。

 「まだ夜中でした。雨期の最中だから、もちろん濁流。川幅は200メートル以上はあったと思う。とうとうと流れてますよ。川岸にいかだがあったんです。縦2・5メートル、横は1・5メートルくらいかな」

 いかだには5人が付いた。先頭では、泳ぎの上手な人がロープを体にくくって引っ張った。横に2人がつかまり、後ろに細谷さんら2人が付いて泳ぎながら押した。

 「手りゅう弾、靴、ズボンも脱いで載せる。薬と塩入りの飯ごうを雑のうに入れて右肩から掛ける。空の水筒も左肩に掛け、浮袋にするわけね」

 「私は、いかだにつかまれば体が浮くことは知っていた。別のいかだでは、1人がはい上がって、いかだごと流されてしまったのを見た気がする。だんだん真ん中へ行くと、流れが速くなるでしょ。すると、あっちこっちで『よいしょ、よいしょ』と掛け声が聞こえてくる。みんな力を入れると、声が出るわけね。それで激流を乗り切る。もう夢中。無我夢中っちゅうかね」

 「夜が明けてきて、切り立った崖を避け、草の生えた岸にたどり着きました。まあ、なんとか渡れた、と。それで敵中を抜け出して友軍の勢力内に入りますからね。なんとか助かった」

 戦史叢書によると、ペグー山系に入った第28軍は約3万4千。渡河前の兵力は約2万5千との報告もある。うち、シッタン河を渡って友軍の勢力内にたどり着いた兵は1万5千余りにすぎなかった。(森 信弘)

2015/8/29
 

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