第9部 極秘裏の掃海隊

【7】前方の米軍艇触雷、沈没

2016/12/16 11:34

 甲板長だった嶋田好孝さん(91)=神戸市兵庫区=の掃海艇MS03は1950(昭和25)年10月8日、船隊を組み、朝鮮半島を目指して下関港(山口県)を出た。前日の7日には、別の隊が朝鮮半島西岸の仁川方面に向けて出発。北朝鮮軍が敷設したソ連製の機雷が待ち受ける海で、任務が始まろうとしていた。

 「私を含めた10人くらいの甲板員は、かじ取りと船の位置測定を交代でやってました。(朝鮮半島東岸の)元山で掃海するとは聞いていません。でも、私は東京の海保に海図を取りに行ったときから、目指すのは元山しかないと思ってました」

 当時、米軍は元山への上陸作戦を考えていた。嶋田さんの一行は掃海艇4隻と巡視船3隻に特別掃海隊全体の旗艦「ゆうちどり」を加えた計8隻。米軍の船に先導されて北緯38度線を越え、10月10日に元山沖に到着。翌11日から掃海作業を始めた。そして12日、元山港のある永興湾へと進入する。

 「最初に米軍の掃海艇が、係維機雷と重りをつないでいるワイヤを切断していきます。それで浮き上がってくる機雷を撃って処分するため、ついて行くんです。目の前に浮いてきたのは、確か13個だったと思います。艇長の『処分用意』という声がして、自動小銃でダダーンと撃ったとき『撃ち方やめ』と止められたんです。ちょうどそのとき、前方の米軍の掃海艇が触雷したらしいんです。私には見えなかったんですが」

 「そしたら、敵が近くの島からバババッ、と射撃してきたんです。それに対して米軍の駆逐艦が艦砲射撃で大砲をぶち込んで。爆撃機も1機飛んでいき、トーチカを攻撃しました。爆弾が当たったんでしょう。双眼鏡をのぞいたら、白旗が上がっていましたよ。私らは、射撃を受けたということで特別の手当がもらえました」

 このとき、米軍の掃海艇は2隻が触雷して沈没。13人が死亡または行方不明とされた。

 「アメリカ人の負傷者を積んだ救助艇が目の前を通ったんです。笑顔で手を振っててね。後で聞くと、これで本国へ帰れる、と喜んでいたようです。人間ってそんなもんですよ。仕事だから戦場に行くわけです。初めは命のことなんて考えてないけど、自分がやられて助かったとき、われに返ってありがたみを知るんです」

 米掃海艇の触雷を受けて、日本隊はいったん後方へと下がった。(森 信弘)

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