1950(昭和25)年10月初旬、海上保安庁職員の嶋田好孝さん(91)=神戸市兵庫区=は、下関港(山口県)の岸壁で、朝鮮戦争での機雷掃海に向け準備をしていた。嶋田さんたちの掃海艇の船名は「MS03」。機雷を意味する英語「Mine(マイン)」と掃除人の「Sweeper(スイーパー)」の頭文字から成る。朝鮮半島沖で触雷し、21歳で命を落とす中谷坂太郎さんは掃海艇「MS14」に乗っており、嶋田さんとは神戸の飲み友達だった。
「その日は午前中にライフル2丁、自動小銃1丁、それに弾薬200発を積み込んで手入れをしてました。海中に仕掛けられている係維機雷を重りと切り離し、浮かせたところを爆破処分するのに使うためです」
「昼からは休みだったので、MS14の炊事担当の烹炊(ほうすい)員だった中谷君が『嶋田君、カジキマグロが手に入ったから一杯やろう』っちゅうんです。出航に備えて食料も積み込んでますから。私の船に刺し身を持ってきてくれて、艦橋で2人、乾杯したわけですわ。焼酎のストレートでした。世間話ぐらいをして、元気で帰ったらまた一杯やろう、と言って別れたんです」
「私の方が四つ五つ年上でしたが、2人ともまだ結婚はしてませんでした。あのころは、希望があるようでないような感じがしてました。当時はまだ占領下で自衛隊がなかったんですが、元軍人として国を守るためには、いずれ海軍が復活してほしいと思ってました。でも、それも分かりませんでしたしね」
大久保武雄・初代海上保安庁長官の回顧録「海鳴りの日々」によると、連合国軍総司令部(GHQ)が50年10月6日、日本政府に出した指令では「(掃海任務の)船舶の標識は、万国信号E旗(特殊任務)を掲げること」とされている。占領下の当時は、領海外で日の丸を掲げることは許されていない。ただ、隠すものは他にもあった。
「掃海艇には海上保安庁のマークが溶接か何かで付いてたんですけど、それを外した覚えがあります。『極秘の任務だ』と耳にした記憶はないんですが、あまりしゃべるなという雰囲気はひしひしと感じてましたね」
日本の特別掃海隊は4隊に分けられた。「海鳴りの日々」によると6日午後6時、米軍からこのうち2隊の出動指令が出た。嶋田さんと中谷さんは同じ隊に所属して北へ向かうことになる。(森 信弘)