1944(昭和19)年10月20日、嶋田好孝さん(91)=神戸市兵庫区=が乗る航空戦艦「日向(ひゅうが)」は、空母4隻とともに豊後水道を下った。おとりとなって米軍を引きつける間に、大和、武蔵などの主力艦隊がレイテ湾へ突入する作戦。日向は、フィリピン北方で敵機の襲来を受けた。
「伝令の私は、電話線を持ってマンホールのような穴から顔を出し、敵機の群れが迫ってくるのを見ました。でも日向は対空火器を強化してましたし、うちは絶対大丈夫だと思ってましたね」
爆撃を避ける日向のかじ取りも巧みで、被害は少なかった。敵は引きつけたが、空母4隻や武蔵など多くの艦船が沈められ、連合艦隊は事実上壊滅してしまう。出航から9日後、嶋田さんは呉軍港(広島県呉市)に帰還する。
「出るときは一緒だった空母がいないんです。日向の下士官たちは、日本は神の国だからいずれ神風が吹いて米艦隊は太平洋の藻くずになるだろう、と言っとったんです。なのに何が神の国だ、うそだと思いましたよ」
やがて、燃料がなくなった日向は呉の近く、情島(なさけじま)沖に固定され、浮砲台となった。そして45年7月24日、米軍の空襲で最期を迎える。
「情島でなぜかブタを1頭飼ってて、私が飼育係でした。朝、餌をやり、山を越えて戻ろうとしたら飛行機が現れたんです。ドーン、ドーンと音がして、日向にボンボン爆弾を落としとるわけです。いったん落ち着いてから、ボートで日向に戻ったらまた敵機が来て。砲塔の中に逃げ込んで助かったんです」
午後、嶋田さんたちはボートで遺体を情島に運んだ。多数の爆弾を受けた日向は大破。呉市内の慰霊碑には、戦死者は197人とある。
「20から30体くらいの遺体を浜辺に1列に並べ、1人ずつ名札を見て名前と所属を帳簿に記録していきました。山林で木を切って油をかけ、日が暮れるころに火葬しました。火柱が上がりましたよ。人を焼いているのに、くさくはなかったですね。一晩中燃え続け、完全に焼けたのは朝方です。それから箸で遺骨を拾ったんです」
「私の同年兵も亡くなってましたけど、涙が出るとかいう感じじゃない。この世の中には神も仏もない、これが戦争か、と改めて思いました。もう無の境地で、ただ無心に遺骨を拾ったということです」(森 信弘)
2016/12/10